特集 マーラー;交響曲第6番 聴き比べ


 斉諧生にとって、マーラーは比較的苦手にしてきた作曲家であるが、このあたりで一度ちゃんと聴いておきたいと思い、馴染みの薄い第2・5〜8番のうち、第6番を選んだ。
 今は昔になったが、1982年、エリアフ・インバル(まだ無名に近かった)と日本フィルの実演で、この曲を聴いて感心した記憶がある。
 苦手とはいえ、なんだかんだで数えてみたら無慮17種を架蔵しており、とても全部は聴ききれないので、両端楽章の冒頭各1分ほどを聴いてみて、6種を選んだ。
以下、録音順に配列。

ディミトリ・ミトロプーロス(指揮)ニューヨーク・フィル(NYP自主製作)
1955年4月10日、カーネギーホールでのライヴ録音。どういうマイク配置なのかわからないが、各楽器が非常にリアルに聴こえる。
マーラーを得意にしたことで有名なミトロプーロスだが、ここで聴ける音楽は世紀末的とか耽溺とかいうよりも、「雄渾」・「絢爛」といった言葉を想起させる。
主旋律を中心に骨太に押しきっていく。極端に言えば、とても破滅しそうにない雰囲気だ。
オーケストラも上手い。ヴァイオリンや木管のソロも肉の厚い音色で美しく、金管も最後まで息切れせずに圧倒的な吹奏を聴かせる。
なお、第1楽章の提示部の繰り返しは行わず、第2楽章アンダンテを配している。
 
ハンス・ロスバウト(指揮)南西ドイツ放送響(DATUM)
CDには1960年と表記されているが、ディスコグラフィによれば1961年3月30日〜4月6日に放送用にスタジオ録音された音源。エアチェック・テープのCD化とおぼしく、鑑賞には差し支えないものの、あまり優れた音質ではない。
ところがプアな再生音から、非常に立体的な音楽が聴こえてくる。管楽器がクリアに響いているのである。今の指揮者でいえば、ブーレーズのような音楽づくりだったのであろう。
もっともロスバウトのマーラーは、ブーレーズ以上にドライだ。
「思い入れ」は皆無、マーラー的な音のずり上げや粘りをことごとく排し、引き締まったテンポと音響で、くっきり・グイグイと進んでいく。
音楽の輪郭・構造を力強く描き出した演奏といえるだろう。
 
ぜひぜひ正規音源からのCD化を望みたい。以前WERGOレーベルから出た同じ作曲家の第7番(1957年)などモノラルながら素晴らしい音質だった。
この指揮者の音楽は、今の時代にこそ適合していると思う。バーデンバーデンの放送局に残っている音源が大規模に発売されれば、一般的な評価は急上昇するのではなかろうか。
 
ラファエル・クーベリック(指揮)バイエルン放送響(audite)
先日発売されたばかりの、1968年12月6日ヘルクレス・ザールでのライヴ録音。
第1楽章など、提示部を繰り返しているにもかかわらず20分30秒という超高速(テンシュテットは25分前後を要する)。
単にテンポが速いだけでなく、異様な切迫感がある。フレーズの切り方あたりから来るのだろうか。
冷静なロスバウトの次に聴いただけに、よけいに興奮ぶりが目立った。
テンポの揺れが大きいばかりでなく、弦合奏が歌うところは陶酔的な表情さえ浮かんでいる。
アンダンテも優美に歌い始めて、非常に切実な、胸一杯の終結に至る。
 
クーベリックのマーラーというと、スタジオ録音盤は「派手な効果や誇張がない」・「落ち着いたスタンス」等と評されるのが常だが、ライヴではまったく違った音楽をやっていたのである。
終楽章など、オーケストラが浮き足立っているような感じさえある。
 
クラウス・テンシュテット(指揮)ロンドン・フィル (1)(EMI)
テンシュテットのスタジオ録音盤で、1983年4〜5月の収録。
一聴して、音の「力」、音楽に込められたエネルギーに圧倒されずにはいられない。
一音一音から、指揮者の思い入れが伝わってくるといっていい。聴く者は、一瞬も弛むことのない噴出を浴び続けることになる。
弱音器をつけた金管の強調、ピツィカートの強奏、弦合奏のちょっとしたアクセント、特定のパートの突出等々、言ってみれば「過剰さ」からマーラーへの共感、同化が立ちのぼってくるのだ。
また、フレージングの呼吸が深く、音楽のスケールが大きいことも特筆したい。
スケルツォでは荒れ狂う主部と柔らかい中間部の対比が光る。
アンダンテでは、遠いところを思いやるようなピアニッシモの歌が、彼岸を渇仰するようなクライマックスに至る。ここにあるのは、人間的な愛の歌ではない。
そして、終楽章。冒頭のチューバ・ソロはもとより、それを支えるハープの低音も意味深い。金管の咆哮やハンマーの打撃に向けた大きな盛り上がりも強烈である。
まさしく「修羅」
この楽章については「英雄の闘争」と表現されることも多いが、もう一つぴったりこないように思う。特定の相手との対立、争いと勝ち負け、という音楽ではない。作曲者が「(英雄は)運命に打ち倒される」と書いたのである。
人間の力ではいかんともしがたい、運命との葛藤・相剋・苦悩・破滅…それには「修羅」という言葉がふさわしかろう。
 
今回聴いた6種の中では、これがベスト
ただし、気楽には聴けないし、始終聴ける演奏ではないと思う。
 
なお、試聴は東芝EMI盤(TOCE9663〜64)で行ったが、これは日本でリマスタリングされた盤で、輸入盤(手許にあるのはCMS7-64476-2の4枚組)とは音の傾向がかなり異なる。
おそらくピークを抑えてレベルの低い音を持ち上げ、音圧を強めているのだろう。「音が近い」ように聴こえる。(反面、音場の奥行きやダイナミックレンジの広さでは輸入盤が優れている。)
↑の感想にも、この音の特徴が影響しているので留意されたい。
 
ガリー・ベルティーニ(指揮)ケルン放送響(EMI&DHM)
1984年9月21日、ケルンでの収録。このコンビの全集のうち最初に録音されたものであった。
管弦楽の質感が美しい
上記テンシュテット盤ではオーケストラが悲鳴をあげるように響く箇所も見られたが、指揮者の方向性かオーケストラの力量か、どんな強奏でも余裕が残っている感じ。
両端楽章のクライマックスでも音楽美を維持しながら、マーラーが書いたものを不足なく音化している。テンシュテットのような逸脱はないが、内側に炎が熾っているのは間違いない。
個人的な意味よりも、もっと客観的というか、宇宙的な視座に立っているかのようである。
アンダンテは至純、至福の透明感を湛えている。これほどチェレスタの響きが似合う演奏もあるまい。美しさを保ったまま高揚していく楽章後半は聴きもの。
 
クラウス・テンシュテット(指揮)ロンドン・フィル (2)(EMI)
1991年11月4・7日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでのライヴ録音。
基本的には上記のスタジオ録音盤と同様、不世出のマーラー指揮者の存在を感じさせる名演だが、比較すると、アゴーギグやテンポの振幅は大きくなっているのだが、音そのものに「思い」が込められている感じは薄れている。
その点で、やや客観的というか、透徹した目を感じさせる演奏といえるだろう。
アンダンテの主題は一層はかなげ。楽章後半は現世への告別のような趣を湛えて更に感動的だ。
終楽章ではティンパニやハンマーの打撃が際立ち、まことに凄惨なものがある。
オーケストラの非力さ、音の遠い録音が、やや気になるところ。

なお、6種の選に漏れたのは次の諸盤(指揮者のABC順)。
太字は、特徴のある演奏で、もう少し時間があれば是非聴きたかったもの。
 
ピエール・ブーレーズ(指揮)ウィーン・フィル(DGG)
リッカルド・シャイー(指揮)コンセルトヘボウ管(DECCA)
ヤシャ・ホーレンシュタイン(指揮)ストックホルム・フィル(UNICORN)
井上道義(指揮)ロイヤル・フィル(CANYON)
ネーメ・ヤルヴィ(指揮)日本フィル(日フィル自主製作)
キリル・コンドラシン(指揮)レニングラード・フィル(BMG)
ジェイムズ・レヴァイン(指揮)ロンドン響(BMG)
小澤征爾(指揮)ボストン響(Philips)
ヴァーツラフ・ノイマン(指揮)チェコ・フィル(CANYON)
ハインツ・レークナー(指揮)ベルリン放送管(徳間)
ジョージ・セル(指揮)クリーヴランド管(Sony Classical)、
 
バーンスタイン新旧盤(新DGG、旧Sony Classical)やバルビローリ(EMI)は未架蔵。(汗)

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