(平成4年12月9日、サントリー・ホール)
宇野さんの文章とのつき合いも10年を超し、オーケストラ・リサイタルのCDも苦笑しながら(友達に冷やかされながら)買い続けてきた。実演に出かけるのは、昨春のブルックナー「第八」に続き、今回が2度目。前回は、意外と素直で好感がもてる演奏だったので感心したが、ベートーヴェンでは果してどうなるだろうか?
これまでCDで出ていたベートーヴェンは、「エロイカ」にせよ「運命」にせよ、テンポが遅いのはともかく、リズムが重く、実にもたれる演奏だった。細部の工夫等に見るべきものも無くはないが、その点で、とうてい繰り返し聴くことに耐え得るものではないと言えよう。この日も、特に第1・3楽章あたり、あくる日まで胸やけがするような出来になるのではないか、と危惧していた。
ところが、正直言って、予想した以上によい出来栄えだった。
「第九」が始まってみると、ほとんどもたれないといっていいくらいだった。1楽章も、また、なによりアダージョがよく流れるいいテンポだった。この楽章を指揮棒を持たずに振りはじめられたときは、大丈夫だろうかと思ったが、これも杞憂だった。もちろん、改善されたとはいえ、まだまだリズムが重いのは相変わらずで、そのうち「第七」でも振ると言い出されたらコトだと思うが。
「英雄」あたりで鼻についた強引なアゴーギグやテンポのねじ曲げも随分少なくなり、「自然な流れの中に個性的な味わいが濃い」という感じに近付いていたのである。演奏会を前に「奇をてらわず、少しでもイン・テンポに近づけ、いや、むしろイン・テンポの部分にこそ、初めて『第9』を聴いたような新鮮な感動や喜びをあたえることが僕の願いなのだ。」(FMfan1993年第1号)と書いておられた意図は、ある程度、くみ取ることができる。
実際、長年、「第九」を聴きこみ、理想の演奏を追い求めてきた宇野さんだけに、随所に斬新なアイデアが見られた。
例えば、弦の中声部の強調やピツィカートの強奏(全体)、ホルンの音を効かせたり(1楽章)、合唱を支えるトロンボーンをしっかり吹かせたり(4楽章)、数多くの新しい発見があった。残念ながら、オーケストラの力量の限界もあり、そのすべてが感動や喜びに結び付くということにはならなかったが、マイクが近く、編集を経たCDでは感動的かもしれない。(ブルックナー「第八」もかなり編集が加えられていた。メカニカルなミスの修正はともかく、フィナーレの終結のティンパニの猛烈なクレッシェンドは、本番では行われなかったように記憶する。)
第1楽章の再現部冒頭や、第4楽章の冒頭(及びその繰り返しの部分)と終結では、ティンパニを硬いマレットで強打させ、鋭い響きを得ていた。スケルツォではトリオに向かって徐々に減速し、実に自然にトリオに移行したし、また、トリオの終結に向けても減速し、「後髪を引かれるような、名残惜しさを表出」していたのには、アーベントロートあたりについての宇野さんの評論を思い出させるものがあった。フィナーレの歓喜主題をpppで出すのもフルトヴェングラーを思わせたが、猿真似ではなく、ホール全体が緊張感に包まれたことは断言できる。また、そのあとのヴィオラの入りも自然で、見事なものであった。
しかし、何といっても、フィナーレのコーダこそ、宇野さんの演奏を価値あるものとしたといえよう。宇野さんの評論を愛読する人は御承知だと思うが、かつて宇野さんは「オーケストラが弾けないような超スピードで突き進み、アッという間に散り果てるフルトヴェングラーの表現が、やはり最高だと思う」(筆者注、51年バイロイト盤)と書いていたが、近年(おそらく指揮活動が活発化してきてから)、「今はちょっとこれには批判的ですね。…絶対あのテンポじゃオケが弾けない」(音楽現代90年3月号)と様子が変わってきた。宇野さん自身がはたしてどう振るのか、注目していた。宇野さんの意図とは別に、バイロイト盤と同様の結果に陥るのではなどと懸念していたが、これは杞憂に終わり、反対に感動の嵐を巻き起こしたのである。
すなわち、オーケストラが乱れないぎりぎりまでテンポを上げると、あとはテンポではなく、928小節以降の金管(特にトランペット)に対するfの指定を、鋭いアクセントに読み換え、迫力を一挙に増しながら、最高潮に盛り上げて終わったのである。これは誠に効果的であり、最後の音の余韻が消えるや否や、拍手とブラヴォーの嵐となったのも、その場にいた者にとっては無理からぬことと頷ける。
惜しむらくは、オーケストラの技量的な制約が所々耳についたこと(オーボエのピッチがうわずり気味であったり、ホルン群のハーモニーが決らなかったり、ティンパニの低音がダルい音で感興をかなりそいだこと)と、1楽章の終結で宇野さんの遊び(エロイカ同様、瞬間的にpに落した)が失敗したこと、アダージョの警告以降の部分に緊張感がやや欠けたこと。
宇野さんにはリズムをもっと磨いてもらいたいと思う。指揮法の改善でも随分良くなるのではないか。合唱の入りでオーケストラとの間にズレが発生していたが、そうしたこともなくなるものと思われる。
なお、1曲目の「フィデリオ」序曲は、やはり、もたれる気味があった。「雄々しく晴ればれとした主題」(当日のプログラムより)が、スケールの大きさを狙ったのであろうが、小錦がスキップしているようなテンポとリズムで演奏され、とうてい「心の弾む」(同)ものではなかった。ついでながら、宇野さんは、以前どこかで、「第九」やブルックナー「第八」の演奏会には余計な曲はいらない、と書いておられたように思うが、どうしたのだろう。