new.htmlへ戻る

2005年03月21日

熾烈豪快壮絶、モントゥー米寿の名演

ピエール・モントゥー(指揮) コンセルトヘボウ管
ベートーヴェン;交響曲第8番 ほか(Radio Netherlands Music)
「放送用ライヴ録音集成 vol.3 1960~1970」から、もっとも聴いてみたかったモントゥーのライヴを取り出す。
ベートーヴェンの8番は、ウィーン・フィルとのスタジオ録音盤(DECCA)があったが、それとはずいぶん違う趣。
DECCA盤の演奏は柔らかい音楽に終始している傾向があるが、こちらは、すべてのパートを鳴らし切る豪快な演奏。
第1楽章展開部後半の追い込みなど、手に汗握る凄まじさ、第4楽章コーダ、279・281小節で打ち込まれる低弦のアクセントの熾烈さ!
後者の372小節以下で減速して大見得を切るところも、DECCA盤とは極まり方が全然違う。
 
更にブラームス;悲劇的序曲は気迫みなぎる壮絶な音楽、ワーグナー;「ブリュンヒルデの自己犠牲」ニルソンの声に圧倒される。
とても90歳近い指揮者の音楽とは思えない(モントゥーは1875年生れ、これらは1962~63年の録音)。
こういうライヴを聴くと、この時期にこのオーケストラでPhilipsがベートーヴェンやブラームスの交響曲全集を正規に録音してくれていたら…と惜しまずにはいられない。

投稿者 seikaisei : 22:15 | コメント (0) | トラックバック

北欧の森を想起させる美演

レイフ・セーゲルスタム(指揮) ヘルシンキ・フィル ほか
シベリウス;交響曲第4番・交響詩「フィンランディア」(Ondine)
これだけ美しい響きのする第4番の音盤も珍しいだろう。
もう第1楽章冒頭の低弦のffの美しい和音を聴いただけで、それが予見できる。
全曲を一貫して弦合奏の音色は渋く温かい。これだけ金属臭のない弦の録音は稀有ではないか。
ベリルンドとの全集では弱点だったObなど管楽器も、奏者が入れ替わったのだろう、ひとつひとつが珠玉のように美しい。
全曲の頂点となる第3楽章は、鬱蒼と寂しい北欧の森に足を踏み入れ、迷路に分け入る感がある。
後期シベリウスの幽玄美への導きとして、多くの人に聴いていただきたい録音である。
ただ、脳裡に焼き付いているケーゲルの壮絶な演奏などと比較すると、厳しさに欠ける面がある。
第1楽章冒頭の有名なチェロのソロは音色が甘めで(これを好む人もいるだろうが)、少々物足りない。
諧謔味を帯びて始まる第2楽章の空気を一変させる(筈の)ObとClの不吉な叫びも、柔らかさを拭い切れていない。
全曲のあちこちで奏される弱音器付きのHrnも、音量が常に抑制され、意味深さを失ってしまった。
 
カプリングのうち「フィンランディア」も、素晴らしい美演。「フィンランディア讃歌」を歌う男声合唱も、胸の熱くなる響きだ。
惜しむらくは、讃歌を最初に歌い出す清冽な木管合奏が、その合唱の陰に隠れてしまったこと。

投稿者 seikaisei : 21:59 | コメント (0) | トラックバック

名曲名演名録音:今井信子のテレマン

今井信子(Va)
テレマン;12の幻想曲(EPSON)
↓に書いたように、試聴した瞬間に心打たれた演奏だが、全曲を聴き通して感嘆三嘆した次第。
金管楽器のように輝かしい高音から木質感の強い低音まで多彩な音色が実によく伸びて、音程も心地よく、音を聴くだけでも堪能させられる。
過去数多の名盤を生んだスイスのホールでの優秀録音も与って功多し。
テレマンというと「ハンブルクの潮の満ち干」だとか「食卓の音楽」とか、とかく描写音楽、娯楽音楽と軽く見られがちなのだが、ヴィオラの渋い音色が音楽に重みを与えて、あたかもバッハやヘンデルの未知の曲集を聴く思いがする。
例えばCDでは2曲目に入っている第8番冒頭の、王者の風格のある優雅で美しい旋律はヘンデルに肩を並べよう。
あるいは3曲目の第2番、重音の響きが美しいアンダンテは、バッハの「G線上のアリア」の塁を摩するものだ。
ゆっくりしたテンポの陰翳深い音楽や舞曲のリズムは、バッハの両無伴奏曲集を髣髴とさせる。
全12曲、いずれも傑作と呼びたくなるが、とりわけ第7番(CD5曲目)は聴きごたえがあった。
慰藉のラルゴ、上機嫌なヴィヴァーチェ、孤絶の足取りのサラバンド、そして短いが気の利いたプレスト。
今井さんの演奏も、切れの良いリズム、エッジの利いたフレージング、ヴィオラという楽器の発音の重さを微塵も感じさせないスピード感溢れる弓捌き。
弦楽を愛する人には残らず耳にしていただきたい、名曲名演名録音といえよう。

投稿者 seikaisei : 21:36 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月19日

ビョルンソンを聴く

エリザベート・レイトン(Vn) ジェイムズ・リズニー(P)
ビョルンソン;Pソナタ・Vnのためのロマンス第1・2番(OLYMPIA)
今日届いた1枚を早速聴く。
作風は極めてロマンティック。非常に聴き易い。
また、主題労作などはあまり見られず、ピアノ・ソナタ ニ短調も、ソナタというよりも3曲からなる幻想小曲集といった趣(演奏時間も全体で14分強)。
楽想も素朴だが、どこか「味がある」。
第2楽章アンダンテ・カンタービレなど、音符の数がずいぶん少なく、ポツポツとした音楽なのだが、抑制された歌と微妙な和声が簡浄の美を描く。
普通の意味で良く書けているのは(たぶん)第1楽章で、ピアニストがライナーノートに書いているように、グリーグかショパンの響きを思わせる。
とはいえ彼らよりも表情は更にシャイで、そこが何とも愛すべき音楽になっているのだが、その分、現代のコンサートホールや音楽市場からは遠くなっているのだろう。
 
2曲のロマンスは作品番号が6と14と離れており、おそらくセットになることを意識して書かれたものとは違うのだろうと思われる。
そのためか、かえって非常に似通っており、どちらも
(1) ロマンティックな主題提示
(2) リズミックな中間部
(3) 主題再帰と終結
という構成をとる。
両曲とも(2)の部分がなかなか面白く、第2番などちょっとタンゴか何かが入った感じのリズムが格好いい。
管弦楽版もあるそうで(CHANDOSからCDが出ていたらしい)、どういうオーケストレーションになっているのか、興味あり。

投稿者 seikaisei : 21:29 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月13日

ヴロンスキーの「アイネ・クライネ」

ペトル・ヴロンスキー(指揮) チェコ室内フィル
モーツァルト;セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(GZ)
先月9日に購入して以来、ずっと気になっていたヴロンスキーの「アイネ・クライネ」を、じっくり聴いてみる。
対照盤はシャーンドル・ヴェーグ(指揮) カメラータ・アカデミカ・ザルツブルクのスタジオ録音(1986年10月、CAPRICCIO)とライヴ録音(1990年7月、Philips)。
 
決定盤との令名高いヴェーグのスタジオ録音盤を聴き直すのは久しぶり。
第1楽章が比較的速め、テンポの動きが少なく、きっぱりしたアーティキュレーションで、かなり硬派・辛口の演奏という印象を受ける。残響を比較的多めに取り入れた録音とも相俟って、堂々たる響き、剛毅な音楽。
同じ指揮者・団体ながらライヴ盤ではテンポの振幅も少なくなく(第1楽章10小節や第2楽章12小節でのリタルダンドなど)、ややデッド・オンマイクの録音で演奏者が近く感じることもあり、インティメイトな音楽として受け止めたくなる。
 
ヴロンスキー盤は、どちらかというとヴェーグの91年盤寄りのスタイルか。
聴感上、編成はかなり小さいものと思われる。各パート2人か多くて4人程度ではないか。
そのため、音色の変化やヴィブラートのかかり具合まで、手に取るようで、演奏の繊細さを如実に聴くことができる。
例えば第1楽章では、54小節冒頭で第1Vnが弾く付点四分音符にかけられた深いヴィブラートや、127小節の音色の曇らせ方など、琴線のふるえに手で触れるような心地と言えようか。
中でも強い印象を受けたのは、第2楽章38小節以下のターン音型で、第1音をごく僅か長く弾く奏法。
指揮者の指示なのか楽員の音楽性なのかチェコに伝わる演奏伝統なのか、つまびらかにはしないが、これによってターンが単なる装飾音ではなく、音楽的感情の表出に高められたのである。
あまり知名度の高い演奏者たちではないが、実に素晴らしいモーツァルト。
ぜひ他の作品、例えばドヴォルザークの弦楽セレナードあたりを聴いてみたいもの。チェコのマイナーレーベルあたりに録音があればよいのだが。

投稿者 seikaisei : 21:08 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月27日

モーツァルトの怪カデンツァ

ジル・アパップ(Vn & 指揮) シンフォニア・ヴァルソヴィア
モーツァルト;Vn協第3番
録り溜めていたケーブルTV(sky-A)の音楽番組を視聴。
アパップは、公式Webpageのトップページからして怪しげ(失礼!)なヴァイオリニスト。
以前、何枚かのCDを上記のWebpageから直接購入したことがある。
実はメニューインの弟子で、その縁でシンフォニア・ヴァルソヴィアとの共演が実現したとのこと。しかも製作はブリューノ・モンサンジョンという大立者。
本編が始まって、登場したアパップ、もちろん燕尾服等ではなく、多少ヒッピー(死語か)風の衣装を着ている。
もっとも演奏が始まってみると至極真っ当でリズムの立ったモーツァルト。緩徐楽章の味わいも佳い。
ふうん…でもこのまま終わってしまったら面白くないナァと思っていると、フィナーレのカデンツァで「怪しさ」が炸裂した。
音楽が即興の色合いを濃くしていくや、アパップが口笛でモーツァルトの主題を吹き始め、そのうちヴァイオリンをギターのように構えて爪弾きながら「吹き語り」。
更にフィドル風に弾きまくるかと思えば、濁声で歌い出すわ、Vc・Cbにリズムを弾かせてジャズ風のインプロヴィゼーションを始めるわ、インドの民族音楽に変容していくわ、やりたい放題。
それでもボウイングや音程は見事にコントロールされているのだから、偉いものである。
拍手喝采に応えてアンコール、なんと舞台の縁に腰掛けて弾きだした。これももちろん自作か即興の音楽だ。
う~ん、この人のステージを生で聴いて(見て)みたい。どこかのオーケストラで呼んでくれないものか。
モーツァルト作品はCDも架蔵しているので見てみると、収録は2002年3月、ワルシャワで行われている。
どうやらこの際に録画と録音が行われたものらしい。ライヴ録音ではないので、別音源だろう。
CDを聴いてみると、やはり同様のカデンツァ。ただし、少し短いように思う。
やはり実演に接しなければ…(笑)。

投稿者 seikaisei : 16:34 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月07日

ユベール・スダーンのブルックナー;第9

ユベール・スダーン(指揮) ザルツブルク・モーツァルテウム管
ブルックナー;交響曲第9番(自主製作)
2002年5月2日のライヴ録音というが、非常に安定した演奏(もちろん完璧というわけではないが)。
外連のない正統的なブルックナー演奏で、安心して身を浸すことができた。
スケルツォの弾み具合などまことに愉しく、こういうブルックナーが日常的に聴ければどれほど仕合わせであろうか。
ただ、上記スケルツォの「怖さ」であるとか、両端楽章の弱奏部での浄福感、どこかこの世のものならざる雰囲気といった、特別な要素には乏しいかと思われる。

投稿者 seikaisei : 21:14 | コメント (0) | トラックバック

アンスネスのK.456

レイフ・オーヴェ・アンスネス(P & 指揮) ノルウェー室内管
モーツァルト;P協第18番(EMI)
まず何より管弦楽部の雄弁さに驚かされる。
ピリオド・アプローチを取り入れているのだが、フレージングの細部までアンスネスの意図が徹底されているようだ。
いつも愛読させていただいているTags of edmundが指摘しておられるように、第2楽章の中間部での陰の濃い表情には肺腑を抉られる思いがした。
もちろん独奏ピアノも彫りの深い表情付け。第18番K.456は、モーツァルトのピアノ協奏曲の中では比較的採り上げられる頻度の低い曲だが、これほどの演奏だと他の曲にまったく聴き劣りしない。
アンスネスの炯眼と音楽性に、あらためて感心させられた。
なお、EMIの公式サイトでリハーサル風景やインタビューを収録したビデオを見ることができる。

投稿者 seikaisei : 21:12 | コメント (0) | トラックバック

クラゲルードのシベリウス

ヘニング・クラゲルード(Vn) ビャルテ・エンゲセット(指揮) ボーンマス響
シベリウス;Vn協(NAXOS)
期待どおりの素晴らしいシベリウス。清潔感のある音色による歌いこみが美しい。
腕自慢の奏者がテンポを上げてアグレッシブに弾くようなところでも落ち着いて構え、ここぞというところでテンポを落とし真摯な思い入れを聴かせてくれる。
とりわけ第3楽章では速めのテンポと切れのいいリズム感が実に見事。この爽快さは他盤からは聴くことができないものだろう。
惜しむらくは管弦楽の響きが冴えないこと。おそらく録音(又はホール)のせいだと思うが、明晰さや拡がりに欠け、もやもやとすっきりしない。
クラゲルードのヴァイオリンも強奏時の音色には彫琢の余地がありそうなので、他日、もっと良い条件での再録音を期待したい。

投稿者 seikaisei : 21:11 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月10日

音楽の生命感

シャーンドル・ヴェーグ(指揮) カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク
ドヴォルザーク;弦楽セレナード(Orfeo)
音楽を聴く上で、斉諧生にとって最も重要なのは、いきいきした生命(いのち)の弾みを伝えてくれるかどうか、生きてあることの歓びが沸き立つような情感を胸に吹き込んでくれる演奏なのかどうか、ということである。
こう書くと非常に抽象的になるが、音楽は(特に音盤で聴く音楽は)耳から入ってくるものがすべてであるから、「それ」かどうかは、演奏者が発し(音盤やオーディオ装置を通じて)斉諧生の聴覚で検知する、具体的な「音」の姿に必ず反映されているはずである。
「それ」は、例えばリズムのちょっとした伸縮、例えば心もち強めのアクセント、例えば幾分大きいクレッシェンド、例えば和音を構成する一つの音の僅かな低さ、例えば楽器の振動に含まれる倍音成分のふくらみ…といった個別具体の要素に還元され、しかしそれらの総和・蓄積として、聴く者の感動を左右する。
一瞬の音でも解析するためには膨大な単語を要するゆえに、音楽の逐語的な描写は不可能だが、その一斑をすくい取ることは不可能ではないと考えている。
 
閑話休題、このヴェーグの演奏について、に「生命を掘り起こせずんば音楽にあらずと言わんばかりの勢い」と記した。
それを具体的に書けばどうなるか、というのが今日の課題。
第1楽章冒頭の美しいレガート(弦の音色の温かいこと!)、旋律の流れに沿ったクレッシェンドとデクレッシェンドの細かい扱いから生まれる優しい表情など。
第2楽章では、ワルツの旋律を奏でる第1Vnの下で、ドローンのような音型を弾く第2Vaに与えられた寂びの強い音色と強いアクセントが見事な効果を上げている(楽譜ではfz指定なのだから当然といえば当然だが、ここまではっきりさせているのは珍しい)。
内声部が生き生きしているのもこの演奏の特徴で、特にこの楽章のトリオ部でVcのピツィカートを強奏させる部分が目覚ましい。
第3楽章スケルツォは速めのテンポと強いアクセントで猛烈なスピード感を生み出す。
その一方で大きめのリタルダンドや美しいレガートを織り交ぜることで、音楽を立体的なものにしているのである。
第4楽章は、放っておいても美しいラルゲットだが、遅めのテンポ、暗めの音色、音符の末尾の僅かなディミヌエンドが、落ち着いた音楽、内省的な美感を生んでいる。
終楽章は、スケルツォ同様の疾走する音楽。
内声のリズムが実に良い。ジャズでいうスウィング感がある。
コーダの追い込みと、回想的に挿入される第1楽章の旋律との対比が、回想部末尾の大きなリタルダンドで更に強調され、猛然と駆け込んだ終結に、拍手大喝采が浴びせられたのも頷ける結果だ。
 
惜しむらくは、録音(又はマスタリング)が硬質で、弦合奏が強奏時に金属的に響く。
演奏にも多少のライヴ的な傷を免れていないところがあり、即座にこの曲のベスト盤として推すことはためらわれるものの、「音楽の生命感」を大事にする聴き手にとってはかけがえのない演奏(音盤)の一つである。
このところblogがサーバーに重くなってきたのか、トラックバック機能がちゃんと使えなくなってきて困っている。
当記事から購入時の記事へのトラックバックも張れない状況なので、上記本文中からリンクを張ることで代えさせていただきたい。
<(_ _)>

投稿者 seikaisei : 22:48 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月20日

シベリウス;第3交響曲の新譜を聴く

最近注目の新譜が相次いだシベリウス;交響曲第3番を聴く。
レイフ・セーゲルスタム(指揮) デンマーク国立放送響(CHANDOS)
セーゲルスタムの旧全集は不出来という評価を下して以来、ほとんど顧みたことがなかったので、聴き比べのレファレンスを兼ねて聴き直してみる。
第一印象としては、「思いこんでいたほどには悪くない」という感じ。
雰囲気的には面白いところもあり、例えば第1楽章で第2主題が提示されるときに醸される憂愁の響きなど、指揮者の表現意欲・表現力をよく示すものだ。
ただやはり「緩さ」を感じる面がある。最初は録音のせいかと思ったが、弦合奏の響きの「幅」はおそらく音程の問題だろうし、木管の音色に抑制が欠けていたり管弦問わずフレージングがキッパリしていないのは、指揮者の責任だろう。
最大の問題は、第3楽章の後半、主題が全容を現す際の表情が優しすぎ(指定は "con energia")、かつ、そのあとの音楽の運びに推進力を欠く点。
レイフ・セーゲルスタム(指揮) ヘルシンキ・フィル(Ondine)
旧盤よりもオーケストラの精度が格段に向上しているのは指揮者の力か、シベリウスへの習熟度の違いか。
弦合奏の立体感や木管の音色の精妙さ、これでこそシベリウス、と唸らせる響きである。
セーゲルスタムの「癖」のようなものが後退していて聴き易くなっているし、まだ残っている「減速」や「粘り」もこの程度であれば、アクセントというか香辛料として楽しむことができる。
例えば第2楽章中程、3分割されたチェロが高音域で美しいモチーフを絡み合わせる部分での温もりのある佳い音色など、この指揮者の魁偉な髭面の下には本当に暖かい心が宿っているに違いない…と思わせられた。
北欧の音色感とヒューマニスティックな味わいとが両立した、優れたシベリウス演奏の一つといえよう。
 
ただし、同レーベルのムストネン盤が聴かせた清明の極みに比べると、まだまだ…の感が強い。シベリウスの神髄の一端に触れるには、ぜひムストネン盤をお聴きいただきたい。
平成17(2005)年にはムストネン(指揮) ヘルシンキ祝祭管の来日公演が予定されている。
詳細の公演予定はまだ承知しないが、是非聴きに参じたいものである。
エフゲニー・ムラヴィンスキー(指揮) レニングラード・フィル(Altus)
音楽のまばゆい輝きという点では、他に冠絶した演奏。
音の強靱さ(管であれ弦であれ)、目くるめくようなスピード感、キリッと絞り上げられたフレージング、録音の不備を超えて、ぜひぜひ聴かれてほしい音楽である。
この演奏も、シベリウスの神髄の一端に触れるものといえよう(ただしムストネン盤とは反対側の端)。
 
ただ、斉諧生のシベリウス演奏に関する好みからすると、木管の音色感に違和感が強く、直ちにベストを争う盤として指を屈するには躊躇せざるを得ない。
(あるいは録音のせいかもしれず、もし当夜の演奏会場、すなわち1963年10月27日のレニングラード・フィルハーモニー大ホールに居合わせたならば、四の五の言わずにノックアウトされた可能性も十分考えられる。)

投稿者 seikaisei : 23:59 | コメント (2) | トラックバック