BIS 421/424より   逸匠列伝
 

カール・フォン・ガラグリ

Carl von Garaguly

(1900-1984)


ガラグリのこと

 カール・フォン・ガラグリの名前は、あまり知られていない。

その上、なかなか憶えてもらえない。「ガラグル?」「グリガレ?」等々(^^;;;

 『指揮者のすべて』(音楽之友社、1996年)は「内外780名を収録」と銘打っているが、それにも収録されていない。
 亡くなったのは1984年だが、『レコード芸術』の付録「イヤーブック」の「逝ける音楽家」にも記載されなかった。おかげで命日も没地も不明のままである(↓追補)。
 
 国内盤が出ていなかったわけではないので、まさしく「逸匠=忘れられた指揮者」と言っていい。
 
 では、「忘れられていい指揮者」なのか? 断じて、否である。
 
 残された録音を聴く限り、端倪すべからざる力量の持ち主であったと考えられる上、中でもシベリウス;交響曲第1・2番は、同曲録音中のベストを争う名演といっていいだろう。
 
 ここに彼の伝を立てる所以である。


ガラグリ小伝

 ガラグリは、1900年12月28日、ハンガリーのブダペシュト生まれ。同地でイェネ・フバイにヴァイオリンを学んだ。ヨゼフ・シゲティ(1892〜1973年)、ユージン・オーマンディ(1899〜1985年)と同門である。のち、ベルリンでアンリ・マルトーにも師事し、17歳でベルリン・フィルに入団した。当時の常任指揮者はアルトゥール・ニキシュである。

資料によれば、彼のポストは「assistant deputy leader」とあるが、どれぐらいの地位だったのだろう?

 ニキシュが没するのが1922年、後任はもちろんヴィルヘルム・フルトヴェングラーだが、それと関係があるのかないのか、ガラグリは、1923年、ヨェーテボリ響の第1コンサートマスターに招かれてスウェーデンに渡った。

また、これと同時に、ヨェーテボリ弦楽四重奏団を率いた。室内楽活動は、1940〜1953年にガラグリ四重奏団を組織する等、盛んに行っている。

 1930年、ストックホルム・フィルの副コンサートマスターに転じ、12シーズンにわたって在籍する。首席指揮者はイェオリ・シュネーヴォイクトからヴァーツラフ・ターリヒ、その後をフリッツ・ブッシュが継いだ。
 1939年、第二次世界大戦が勃発、スウェーデンは中立を保ったが、ドイツ人ブッシュは離任を余儀なくされ、当然、後任を招聘することもままならない状況に立ち至った。
 
 このとき、抜擢されたのがガラグリである。

彼は、この間、クレメンス・クラウスに指揮を学び、わずかながら、学校巡回コンサートで指揮台にも立っていた。

 定期演奏会デビューは1940年3月6日、1940〜41年のシーズンに13回の演奏会を指揮した。
 これが好評だったらしく、次のシーズンには臨時指揮者に、1942年には首席指揮者に任命され、1953年まで12シーズンにわたって在任した。後任は、ハンス・シュミット・イッセルシュテット

在任中に、294回の定期演奏会、12回の青少年コンサートと91回の学校巡回コンサートを指揮し、また、オーケストラのロンドン演奏旅行(1952年)に同行して2回のコンサートを指揮している。

 その後は、ベルゲン・フィル(1952〜58年)、アーンヘム・フィル(1959〜70年)、南ユトランド響(1965〜80年)のポストを歴任しつつ、各地のオーケストラに客演した。

なお、ベルゲン・フィル在任時には、ベルゲン音楽祭の創設という功績も遺している。

 1984年10月8日、ストックホルムで没した。
 

(追補) このページを御覧いただいた方から、ガラグリの命日・没地等の情報を頂戴したので、本文を改訂した。心から感謝申し上げる。(1999/9/11)


関連リンク集

ストックホルム・フィル
長く首席指揮者を勤めた。
 
ヨェーテボリ響
コンサートマスターを勤め、後年、指揮者として客演した。
 
ベルゲン・フィル
1952〜58年に首席指揮者を勤めた。
 
アーンヘム・フィル
1959〜70年に首席指揮者を勤めた。
 
南ユトランド響
1965〜80年に首席指揮者を勤めた。
 
ドレスデン・フィル
たびたび客演し、名盤を遺した。

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