NDR-A033193より   名匠列伝
 

ハンス・シュミット・イッセルシュテット

Hans Schmidt Isserstedt

(1900-1973)


シュミット・イッセルシュテット小伝

<生い立ち>
 ハンス・シュミット・イッセルシュテットは1900年5月5日、ベルリンに生まれ、1973年5月28日、ホルムで没した。
 
 先祖代々、生粋の「ベルリンっ子」だそうである。「ハンス・シュミット」では、「山田太郎」のごとく、あまりに平凡なことから、母方の姓イッセルシュテットを加えたという。

 逆にそのためしばしば誤って呼ばれることとなり、「ハンス・メッサーシュミット」とアナウンスしたラジオ局すらあったとか。
 
 本人も、来日時に何十枚もの色紙にサインをさせられたとき、途中で「私の名前はなんでこんなに長いんだ。別の名にしたいよ」とうんざりした顔を見せたそうである。

 シュミット家はビール醸造所を営んでいたが、父はピアノを、母は歌をよくする音楽的な家庭だった。醸造所併設のカフェで演奏していた楽士のヴァイオリンに惹かれ、家庭で室内楽を演奏したり(モーツァルト;クラリネット五重奏曲に魅了されたという)、アマチュア・オーケストラのコンサートマスターをしたりしながら勉学を続けた。
 
 長じてベルリン大学等で作曲と音楽学を学び、『モーツァルトの少年時代のオペラの楽器法に対するイタリア人の影響について』という論文で博士号を得た。後年、「いまでもプロイセン国立図書館でモーツァルトの自筆稿をのぞき込みながら過ごした何年かのことを楽しく思い出します。」と回想している。
 作曲の師は、当時ベルリン高等音楽院で院長を務めていたフランツ・シュレーカーだったが、音楽的には馴染めないものがあったようだ。自身の作品には歌劇「ハッサンの勝利」などがある。
 

<指揮者として>
 大指揮者ニキシュに憧れ、1923年、バルメン・エルバーフェルト歌劇場(現・ヴッパータール)のコレペティトール(練習指揮者)となる。あるときリハーサルなしで『薔薇の騎士』を指揮して成功したこともあるそうだ。
 1928年にロストック歌劇場のカペルマイスター(首席指揮者)に、31年にはダルムシュタット歌劇場の音楽総監督に転じた。当時、ドイツで最年少の音楽総監督であったという。ストラヴィンスキーをはじめ、同時代の音楽を熱心に演奏したが、それゆえにナチスの政権掌握に伴い「退廃音楽にいれこみ過ぎ」と咎められて、職を失うことになる。
 1935年にハンブルク国立歌劇場の首席指揮者に招かれた。自由な雰囲気が残っていた土地であったので、引き続き同時代の音楽を盛んに演奏した。ストラヴィンスキーのバレエすべてやシマノフスキ;『ハルナシー』を上演したという。
 1943年にベルリン・ドイツ歌劇場のオペラ監督に招かれ、翌年には音楽総監督に昇格したが、空襲で家を失い、終戦時にはエルプマルシュという農村に疎開していた。
 

<北ドイツ放送響>
 ある日、シュミット・イッセルシュテットのもとをイギリス軍将校2人が訪れ、ハンブルクの放送局で交響楽団を創設してほしいと依頼したことが、彼の後半生を決定した。

 彼の非ナチ問題は、このときに質問票に回答したことで決着したとのことである。戦時中に就いていたポストを考えると、例えばハンス・クナッパーツブッシュの重い処分などに比べて恵まれすぎているように思うが、これはミュンヘンを占領したアメリカ軍と北西部を占領したイギリス軍との姿勢の違いによるのかもしれない。

 「ベルリン・フィルウィーン・フィルを交配した弦楽器と、コンセルトヘボウフィラデルフィアが結婚した管楽器」をめざし、シュミット・イッセルシュテットは各地の捕虜収容所を駆け回って楽員のオーディションを行った。またドイツ各地から優秀な楽員が集まり、中でもベルリン・フィルのコンサートマスターであったエーリヒ・レーンを得たことは有名である。
 早くも1945年11月1日に第1回の定期演奏会を行った。曲目は、

ベートーヴェン;「エグモント」序曲
ブラームス;VnとVcのための二重協奏曲(独奏;エーリヒ・レーン(Vn)、フェルディナント・ダーニ(Vc))、
チャイコフスキー;交響曲第5番

というもの。
 その後、1971年に名誉指揮者に転じるまで、このオーケストラの育成に心血を注いだ。
 1949年からドイツ国内の演奏旅行が始まり、翌年からはフランス・イギリスへ、また後年にはソ連やアメリカを訪問した。

 この間、1956年に放送局の名称変更に伴い、「北西ドイツ放送交響楽団」から「北ドイツ放送交響楽団」にオーケストラの名前も変わっている。

 1955年から1964年まで、カール・フォン・ガラグリの後を襲ってストックホルム・フィルの首席指揮者を勤め、ここでも現代音楽を盛んに演奏した。
 

<来日公演>
 1964年10月に初来日し、読売日本交響楽団大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮した。

読売日響のプログラムは、
(10月14日)
モーツァルト;交響曲第31番「パリ」
ヘンツェ;「ウンディーネ」第2組曲
チャイコフスキー;交響曲第4番
 
(10月16日)
シューベルト;交響曲第8番「未完成」
R・シュトラウス;交響詩「ドン・ファン」
ブラームス;交響曲第1番
 
大阪フィルのプログラムは、
(10月23日)
モーツァルト;交響曲第41番「ジュピター」
エック;フランス組曲
ベートーヴェン;交響曲第5番「運命」
というものであった。
ヘンツェ、エックといった同時代の作曲家を採り上げているところが彼らしい。

 読売日響には1970年、ベートーヴェン生誕200年を期して再度客演し、交響曲第9番ミサ・ソレムニスを指揮した。

彼の実演に接した大木正興氏は、
「立派な体躯と、あまり仰々しい身振りのない指揮は、見るからに風格豊かなもので、音楽もまた安定感の強い格調高いものだった。どこか大学の総長が音楽を統御しているといった風情があった。」
と回想している。

 ユーモアに溢れた人柄で、「カラヤンをどう思うか?」と尋ねられて、「ユーモアのセンスに欠けるね」と評したという。また、大町陽一郎氏の回想によれば、北ドイツ放送響に客演したストラヴィンスキーが楽譜をめくるたびに拍子が危なくなる様子や、リハーサルでベームがオーケストラに注文を付ける様子の口真似・振り真似は爆笑ものだったそうだ。
 

<録音活動>
 録音活動はSP時代から活発で、独テレフンケンからポピュラー名曲と協奏曲を大量にリリースしている。

1989年に没した小説家・大岡昇平は、戦前、『ディスク』誌にしばしば音盤評を寄稿していたが(小説家としてデビューする前のことである)、
「この人の指揮には無理が無い、そしてしゃんと面白さというものを引き出す事を心得ている。豊富な音楽の国ドイツでなければ生まれない、音楽を楽しみ楽しませるという事を身につけた人である」
云々と評している。

 戦後も録音活動は続けているが、あまり恵まれたものではなかったところ、1958〜59年、ヴィルヘルム・バックハウス独奏によるベートーヴェン;ピアノ協奏曲全集ウィーン・フィルを指揮して共演したことと、1965〜69年に同じ作曲家とオーケストラの交響曲全集を録音したことで、一躍、レコード愛好家に名前を知られることとなった。

 この抜擢については、子息エーリヒ・シュミット(エリック・スミス)が英DECCAのプロデューサーであった関係と噂され、また録音現場を実見した人は、「オーケストラのほうは、ただ黙々と、指揮と録音技師の指示に従う、といった態度に見えました。」と語っている。しかし、結果として生まれた音盤は、1960年代のウィーン・フィルの良さを最も素直に出したものとして、今なお評価が高い。

 最も愛したモーツァルトの音楽に散発的な録音しかないのは残念だが、バンベルク響との交響曲第31・35番(独ACANTA)、ロンドン響との交響曲第39・41番(米Mercury)、北ドイツ放送響 ほかとの歌劇「恋の花つくり」(蘭Philips)等が主なものである。
 また、得意にしたストラヴィンスキーヘンツェ等の20世紀音楽が音盤として残っていないのも惜しまれる。

 珍品としてはラヴェル;ピアノ協奏曲(モニク・アース、独DGG)、ヴェルディ;歌劇「椿姫」抜粋(マリア・シュターダーエルンスト・ヘフリガー他、独DGG)等が面白い。

 シュミット・イッセルシュテットは、ブラームスの音楽に特別な親しみを覚えていたようである。

日本での演奏の成否を尋ねられて、
「チャイコフスキーはとても上手い。しかしブラームスはもともと他の国の人にはできないから…」
と答えたという。

 そのブラームス演奏には、彼の剛直な面がよくあらわれている。ジネット・ヌヴーとの伝説的なヴァイオリン協奏曲や、ライヴ録音の交響曲第4番が代表的な名演であろう。後者は彼の死の1週間前、1973年5月21日に行われた手兵北ドイツ放送響との最後の演奏会の記録である。当日はオール・ブラームス・プロで、

ピアノ協奏曲第1番(独奏;ハンス・リヒター・ハーザー)
交響曲第4番

というものであった。
 


関連リンク集
北ドイツ放送響
長く首席指揮者を勤めた。
 
ストックホルム・フィル
1955〜64年に首席指揮者を勤めた。
 
ハンブルク・ライスハレ(旧称ムジークハレ、外観は右の画像を→)
北ドイツ放送響時代の活躍場所。
(「ハンブルク日記+ドイツ音楽紀行」によると、2005年1月から創設当時の名称に復帰したとのこと。「ライス」は建設資金を寄付した資産家の姓。)
 
ハンブルク・ムジークハレ

 
 

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