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2005年12月27日

京都教育大OB管の演奏会

職場の同僚が参加しているオーケストラの演奏会に出かける。
半分は義理だが半分はドヴォルザーク;Vc協を独奏される柳田耕治さんに惹かれて。
今は群馬響の首席だが、以前京都市響の首席奏者として活躍しておられた方である。
そもそもは、25年ほども前、在学していた学校のオーケストラ部の定期演奏会で、やはりドヴォルザークを演奏されたのが、お名前に接したきっかけ。
本番のあと、たまたま舞台裏をうろうろしていたところ、サインを求める部員たちに誠実に接しておられたのが、いまだに印象に残っている。
今日の演奏もやはり誠実そのもの、必ずしも合奏慣れしていないと思われる団員たち(無礼の段はお許しを)を、温かくリードしながら、ドヴォルザークの美しい旋律を奏でておられた。
申し訳ないが、前半終了時点で失礼させていただいた。

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2005年11月26日

桐山建志さんの演奏会

いつもCDで聴いている桐山建志さん(Cem)が京都でコンサートを開かれるというので参じる。
最近、バッハのCDで共演されている大塚直哉さん(Cem)と御一緒。大塚さんの楽器は50鍵ほどのヴァージナルである。
会場は京都南郊・伏見桃山の住宅地にあるラ・ネージュというスペース。
サロンというか小ぶりの画廊のような場所で、椅子を並べて30脚ほど。上階へ吹き抜けになっている部分もあって、ピリオド楽器には適度な空間か。
 
今日の曲目は、前半がイギリス・バロック、後半がバッハ。
当時流行した『ディヴィジョン・ヴァイオリン』なる曲集から民間歌謡に主題を採った変奏曲や(ショップ;涙のパヴァーヌグリーンスリーヴズなど)、有名なパーセルの弟ダニエル・パーセル;シャコンヌ & ソナタ第6番といったあたりも佳かったが、ひときわ瞠目したのがマシュー・ロック;組曲 ホ短調
解説された大塚さんも「我々の間でも凄い曲、という評判で」とおっしゃっていたが、充実した書法や深い歌、終曲ジーグ(Jigg)の大胆な音遣いなど、感嘆三嘆。
 
後半のバッハは無伴奏Vnソナタ第2番ソナタ ホ短調 BWV1023
無伴奏曲の前半は、なぜか名手桐山さんにしては不安定な演奏だったが、アンダンテあたりから調子が上がり、終曲では快速テンポの流れに圧倒された。
ホ短調ソナタは、いきなりヴァイオリンがカデンツァふうにアルペジオを上下するという破格の曲であるが、比較的小規模な曲ゆえ、正直、もう1曲しっかり聴いてみたい…と思った。
アンコールはホールの名前に因み、何かの歌と「雪やこんこん」に基づく即興(?)演奏。
桐山さんのお話からすると、会場入り後に準備されたようだ(笑)。
 
終演後に飲み物も出て「どうぞお話を」ということだったが、常連さんが多いらしく、ちょっと話の輪に入りづらかったので、そのまま失礼してしまった。
 
今日の収穫は桐山さんの温かい音色を至近距離から拝聴できたこと。
またいつか、渾身・会心のバッハを聴いてみたい。

投稿者 seikaisei : 22:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月08日

リリー・ブーランジェの歌曲を聴く

京都フランス歌曲協会によるレクチャー・コンサートを聴きに行く。
会場は関西日仏学館内の稲畑ホールという、100人程度収容の小ホール。
「稲畑」とは、この会館の建設に尽力した稲畑勝太郎氏の名を採ったもの。
余談だが、稲畑勝太郎は京都市出身、染色の研究のためフランスに派遣され、帰国して染料や染色機械の輸入販売を行う稲畑染料店(現稲畑産業)を創業した。
氏は大阪商工会議所の会頭を務めるなど実業界で活躍したが、フランスとの文化交流にも熱心に取り組んだのである。
また、この人は日本に初めて映画を持ち込み上映した人物としても有名。
 
閑話休題、今夕のテーマは「フランス近代の女性作曲家たち」
シャミナードタイユフェールリリー・ブーランジェの作品が演奏されるというので、馳せ参じたもの。
京都フランス歌曲協会は、かねて彼女の作品をたびたび演奏しておられるのだが、なかなか都合が合わず、今回、初めてコンサートに伺ったのである。
 
なお、解説は中村順子さん、大阪大学・神戸大学で仏文学・音楽学を専攻され、現在甲陽音楽学院で教鞭を執られているとのこと。
 
前半はセシル・シャミナードの音楽。
解説の主旨は、「シャミナードというとサロン音楽という評価だったが、その機知やユーモア、歌曲での旋律と韻律の一致など、芸術音楽としての再評価が必要。」というもの。
演奏されたのは、ピアノ独奏曲2作品と歌曲9作品。
全体に、屈託のない明るさがあり、たしかにまだまだ評価されてよい作曲家だと思われる。
演奏者では歌曲の後半5曲を歌われた緋田芳江さんの繊細な美声が印象に残った(略歴。バッハ・コレギウム・ジャパンにも参加されているとのこと)。
 
後半の初めはジェルメーヌ・タイユフェール
フランス六人組の紅一点として有名だが、作品はそれほど聴かれているとは言えない。
解説によれば「歌曲の代表作」である「6つのフランスの歌」と「晩年の代表作」というピアノ独奏のパルティータが演奏された。
前者は、題名からは想像がつきにくい、女性の奔放な官能を歌った作品。歌手(津山和代)の声質も少し陰のあるものでふさわしかった。
音楽はいずれも「シンプルで軽やか」(解説より)、「パルティータ」の第2曲「夜曲(ノットゥルノ)」でも深刻にはならない。
 
最後にリリー・ブーランジェ;「空のひらけたところ」から5曲が歌われた。
当日のプログラムでは曲名を「空のぽっかり明るい場所」と表記。
第1曲冒頭の和音が響いただけで、他の2人とは次元の違う芸術性が感じられる。
歌われたのは第1・4・5・9・12曲だったが、もう何というか、聴いているだけで幸せ(笑)。
できれば冒頭の和音が再現する第13曲で締めくくってほしかったところ。もっとも9分以上かかる長大な曲なので、構成上、難しかったのかもしれない。
歌唱は下田和恵さんというソプラノの方。初めは少し硬いかな?と思ったが、音楽が進むにつれ、不満を忘れさせる出来栄え。
 
聴くたびに思うことだが、「女性作曲家」という括りでは片付けられない、音楽の深さ・強さを持っているのが、ブーランジェの音楽である。
いつか、「空のひらけたところ」全13曲がまとめて演奏される機会の訪れることを願ってやまない。
終演後に伺ったお話では、歌手には相当な負担がかかる曲集らしい。

投稿者 seikaisei : 23:57 | コメント (3) | トラックバック

2005年09月18日

広島響でトゥビンを聴く

アヌ・タリ(指揮) 広島交響楽団
第252回定期演奏会、広島厚生年金会館
エッレル;交響詩「夜明け」
ドヴォルザーク;Vc協(独奏長谷川陽子)
トゥビン;交響曲第5番(日本初演)
(とりあえず曲目・演奏者のみ掲載します。コメントは後日…<(_ _)>)

投稿者 seikaisei : 23:24 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月15日

ボッセ・大フィルのハイドンほか

ゲルハルト・ボッセ(指揮) 大阪フィルのコンサートを聴きに、いずみホールへ赴く。
今日の曲目は
バッハ;管弦楽組曲第3番
モーツァルト;Vn協第5番
(独奏ロバート・ダヴィドヴィッチ)
ハイドン;交響曲第101番「時計」
というもの。
客の入りはあまりよろしくなく、5~6割程度。
折角のボッセさんなのに…と思うのはマニアだけで、一般の集客力には欠けるということなのだろうか。
それとも曲目に今ひとつパンチがないせいか、あるいはソリスト(大フィルの首席コンサートマスター)が地味なのか。
 
昨日の日本経済新聞夕刊(関西面)に、
「指揮者ボッセ、関西の楽団と次々共演/ドイツ音楽の神髄伝授/あす、大フィルに初登場」
という見出しで大きな記事が掲載されていたので、もしかしたら当日券がないかも、と心配してきたのだが。
おそらく、チケットの売れ行きがあまりに良くないために、関係者が手配して掲載された記事だったのではなかろうか。
 
閑話休題、1曲目のバッハでは、第1Vnから順に6-4-3-2-1とCem、それと管楽器という編成。
序曲では、少ない人数のヴァイオリンが更に弓の圧力を軽めに保ち、主部などかなり速めのテンポで進めてゆく。
本来ならサクサクした心地よいバッハになるはずなのだが、人数が少ないわりには音が粗く、Trpなども響きが浮わつき気味で、どうも感心しない。
第2曲、有名なアリアの冒頭では、ヴィオラを強めの音量で浮かび上がらせ、ヴァイオリンはピアニシモからクレッシェンドしてゆくという手法。
ここのヴィオラに、こんな美しい旋律が隠されていたのか!と吃驚するほど美しい瞬間であった。
また、チェンバロの通奏低音の扱いも美しく、感心することしばしば。
ボッセさんの標傍する純良・清潔なアーティキュレーションが見事な効果を上げる楽章となった。
その後の楽章については序曲と同様の印象。
 
2曲目のモーツァルトでは、弦の編成が8-6-4-3-2に。
ソリストは、ギトリスがよく着ているような、ふわっとした黒のシャツ姿。
快調なテンポの序奏に続いて、独奏が流れを断ちきるように、じっくりした音楽で入ってきたのには少し驚いた。
ちょっと昔風のやり方だ。
ダヴィドヴィッチはルーマニア生まれ、ガラミアンに師事したというが、いかにもアメリカの旧世代という感じで、やや重心の低い音程感覚と、細部までゆるがせにしない音楽づくりで、モーツァルトを紡いでゆく。
くどくはないが、ピリオド奏法とはもちろん無縁。
ボッセさんの指揮ともども、いわば「楷書」のモーツァルト。
 
拍手にこたえているうしろでフルートが2人入場してきてアレレと思っていると、アンコールが管弦楽付きでアダージョ K.261
ヴァイオリニストは「この曲のオリジナルの第2楽章」とアナウンスしていた。
これが本編とはうってかわって、モーツァルトの微笑みと愁いがこぼれんばかりの美しさ。
堪能させていただいた。
 
3曲目のハイドンでは、更に編成が大きくなり、10-8-6-4-2。
第1楽章序奏の弦合奏の和音も美しく、主部に入ってはアクセントを強調気味に、キビキビした音楽が展開する。展開部冒頭の微妙な掛け合いも巧妙。
第2楽章も、生き生きした音楽で、ティンパニが入るところでの落差もくっきりさせ、表情の転変が時に面白く愉しい。
上記の新聞記事では、
"時計"の由来にもなった規則正しい伴奏リズムの第二楽章を、音楽の流れだけを意識するとベタッと単調な感じになってしまう。だが、一音一音を刻むように演奏すれば、時計の振り子を思わせる弾むようなリズムになってくる。
と書かれていた。おそらくボッセさんの語りどおりの文章だろう。
俊敏な第3楽章、展開部の立体感が印象的だった第4楽章も含め、弦合奏の隅々まで掃除(笑)したような、気持ちのいいハイドンを聴かせていただいた。
 
なお、ステージ上にマイクが林立していたが、ラジオ放送されるのかそれともCDでも製作されるのであろうか?

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2005年07月03日

「W.ステーンハンマルの音楽」

今日は東京へ。
待ちに待ったステーンハンマル友の会による、オール・ステーンハンマル・コンサートの当日である。
同会は、2004年10月以来、「サロンコンサート・シリーズ」として、北欧の佳曲を取り上げる演奏会を継続してきたが、今日はその集大成として、ステーンハンマルの作品だけのプログラムで実施されるもの。
この企画については構想段階から伺ってきたので、いよいよ実現するとなると、感無量である。
本業が忙しくなっている時期ではあるが、この日を逃すわけにはいかない。
 
会場は東京オペラシティ・リサイタルホール
心配していた客の入りも、空席はあまり見られない様子で、嬉しい限り。
もっとも見たところ大半は演奏者の力によるもので、ステーンハンマルの音楽が聴きたくて来たという雰囲気の人は、う~ん、10人もいたかどうか…(激汗)。
 
まあ、逆に言えば、それだけ多くの人に、これまで御存知なかったステーンハンマルの名前と音楽を"布教"できたということになる。(^^;
 
さて、以下は演奏順に。
 
(1) スヴァーリエ(独唱版)
向野由美子(M-S) 和田記代(P)
これまでのサロンと違ってホールの容積が桁違いに大きい。向野さんの歌声が美しく伸びて、空間を一杯に満たすのが本当に快い。
この人はサロンでも聴いているが、これほどの声とは(実は)認識していなかった(恥)。<(_ _)>
ややオペラ寄りの、朗々としたスケールの大きい歌唱で、この曲の美しさにあらためて胸が熱くなる思いがした。
 
(2) 3つの無伴奏合唱曲
大束省三(指揮) 北欧合唱団
大束先生は傘寿も間近でいらっしゃるはずだが、それを思わせない、表情豊かな指揮。
合唱団は16人ほど、大束先生に一生懸命ついて行かれるひたむきな様子に感銘を受けた。
 
(3) ルーネベリの「牧歌と警句」による5つの歌曲
向野由美子(M-S) 和田記代(P)
作曲者が妻との婚約中に彼女に捧げた第2曲は、高らかに誇らしく愛を歌い上げる曲。その後半、ややテンポを上げて実に輝かしく歌い抜かれた、素晴らしい歌唱!
静かな悲しみを歌う第3曲の翳りや、ドラマティックな振幅を持つ第4曲での表現も見事。
1895年というステーンハンマルの創作の比較的初期に書かれた作品だが、それゆえに、音符の端々からこぼれ落ちるような瑞々しい情感がある。
向野さんの素晴らしい声が、それを間然とすることなく明らかにしていたと思う。
 
(4) ヴァイオリン・ソナタ
青木調(Vn) 和田記代(P)
この曲もサロンで聴いているが、その時と同様の見事な演奏。
青木さんのヴァイオリンは、第1楽章冒頭こそやや硬さを感じたが、ホールの大きな空間を得た高音の美しい伸びや、第3楽章での音楽の自在な躍動感は前回以上と思われた。
ピアノの濃やかなサポートも素晴らしく、2人の名演にあらためて感激させられた。
 
ここで休憩、前半は1曲目を除いてステーンハンマルの創作活動の初期(前半)に属する作品、後半は盛期(後半)の作品から。
 
(5) 歌曲集「歌と印象」より5曲
向野由美子(M-S) 和田記代(P)
「牧歌と警句」~より書法が練達を加えているのが聴いていてよく判る。
詩人の創作の苦闘を謳う「星」の力強さや、船乗りの歌である「船は行く」・「幸福の国への旅」での闊達さなどが、向野さんの表現力を得て十全に歌い抜かれた。
 
(6) 「晩夏の夜」
松尾優子(P)
松尾さんによるこの曲の演奏も、前にサロンで聴いている。
その時同様、彼女のほの暗く暖かい音色は曲趣にふさわしく、また、更に練り上げられている印象を受けた。
5曲からなる小曲集だが、曲間を空けずに弾かれたことも風情があった。
 
(7) 2つのセンチメンタル・ロマンス
青木調(Vn) 和田記代(P)
第1曲が、ややゆっくり目のテンポで弾きはじめられたとき、胸がいっぱいになった。これこそ理想のテンポ! 休憩前のソナタ同様、高域の美しい伸びは感涙もの!!
ただただ、「酔わせて」いただいた。心から感謝したい。
 
(8) スウェーデン狂詩曲「冬至祭」(室内楽版)
青木調(Vn) 向野由美子(M-S) 松尾優子・和田記代(P)
もとはオーケストラと合唱のための曲だが、演奏者による編曲で。
小編成のわりに聴き映えがするのはヴァイオリンが入っているからだろう。民俗音楽の調べには、やはりヴァイオリンがふさわしい。
終結の高揚感も素晴らしかった。
 
とにもかくにも、これだけの高水準の演奏で、ステーンハンマルの代表的な作品を聴かせていただければ、もう言うことはない。
今年秋から、またサロンコンサート・シリーズが始まり、来年9月に、今日のホールで再び「スウェーデン音楽の調べ」が予定されている。
各回の演奏者は若手の実力者揃いとのこと、大いに期待したい。
それにしても、今日の演奏者を、ぜひ管弦楽付きで聴いてみたい…というのが参集した北欧音楽好きの一致した意見。
宝くじで3億円当てて、指揮者とオーケストラと合唱団を雇って(できれば指揮者は北欧から招聘したい)、3日連続でステーンハンマル・フェスティヴァルだ!と、妙な盛り上がり方をしてしまった(汗)。
 
ちょっとプログラムを想定してみると、
1日目
2つのセンチメンタル・ロマンス
P協第1番
交響曲第2番
(アンコール)交響曲第3番(断章)
 
2日目
セレナード
P協第2番
(アンコール)「歌」間奏曲
 
3日目
序曲「エクセルシオール!」
スウェーデン狂詩曲「冬至祭」
カンタータ「歌」
(アンコール)スヴァーリエ(合唱版)
 
といった感じか。
 
これでも、交響曲第1番劇音楽「チトラ」が漏れている…
2曲のオペラ、「ティルフィング」「ソルハウグの宴」の演奏会形式上演も…
と、夢は果てしない。

投稿者 seikaisei : 22:54 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月08日

ルクー;P四重奏曲の実演

京都大学音楽研究会の第100回記念定期演奏会を聴きに行く。
もっとも本業の都合もあって、演奏された7曲のうち、実際に聴けたのは1曲だけ。
とはいえそれがルクー;P四重奏曲(第1楽章)、この曲の実演に接することができて、ただただ感涙にむせぶのみ。
 
演奏者は、中古音盤堂奥座敷同人の工藤庸介さん(Vn)に加え、吉川昌毅(Va)、山形崇(Vc)、西村嘉晃(P)といった顔ぶれ。
 
何より工藤さんの共感に溢れたVnが素晴らしい。ピアノも達者、またコーダの追い込みもかっこよく、ルクーの音楽の美しさが大勢の人にアピールされた場に居合わせる幸福を味わうことができた。

投稿者 seikaisei : 23:37 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月05日

京都フィロムジカ管のトゥビン

京都フィロムジカ管弦楽団の第17回定期演奏会@京都府長岡京記念文化会館を聴きに行く。
指揮は遠藤浩史公式Webpageもある。
 
今日の曲目は、
マスネ;管弦楽組曲第3番「劇的風景」
ワーグナー;ジークフリート牧歌
トゥビン;交響曲第4番「抒情」
というもの。
目的はもちろん、珍しい北欧作品、トゥビン。ちょうど10年前の6月5日に父ヤルヴィ大阪フィルで日本初演して以来、本邦再演ということになるのだそうである。
このオーケストラを前に聴いたのは、たしか一昨年の6月。
そのときはニルセン;交響曲第3番「ひろがり」だったから、いつも珍しい曲を取り上げていただいてお世話になっているわけだ。
 
そのトゥビンは、期待にそぐわぬ、いやそれ以上に素晴らしい出来。
↓のヴォルメル盤で聴いたときには、わりとサラサラしたリリカルな曲という印象を持ったのだが、今日の実演に接してイメージが一変した。
これほど熱いものを閉じこめた曲であったとは…!
プログラムに、この曲を提案した団員の方が曲目解説を執筆しておられたが、その文章も実に熱い。
特に第2楽章の緊迫感や第4楽章の「人類の未来への希望」(プログラムより)を託した輝かしさには、深く心を打たれた。
なお、指揮者のWebpageにも、この曲への思い入れが吐露されている。
 
隔年で(?)北欧の佳曲を演奏してくださっている団体なので、いつかステーンハンマル;交響曲第2番を聴かせていただけることを念願したい。
 
1曲目のマスネも分厚い響きが立派。
シェイクスピアの戯曲の場面をイメージして書かれた曲だそうだが、『オセロー』の「デスデモーナの眠り」に基づく第2楽章「メロドラマ」が美しく、印象に残った。
 
弦の美しかったワーグナーは、Hrnが少し不安定だったのが残念。

投稿者 seikaisei : 22:22 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月26日

テレフセンを聴く

久しぶりにコンサートへ。
3年前広島響とのショスタコーヴィッチ;Vn協第1番の名演を聴いた、アルヴェ・テレフセンが再来日してのコンサート・ツアー、最終日の神戸公演@松方ホールである。
普段だと平日に神戸まで出かけることは厳しいのだが、幸い、この週の後半は本業が都合をつけやすい時期になったのと、チケットをお譲りくださる方がいらっしゃったのとで、聴きに行くことができた。
 
このホールは、6年前かぶとやま響を聴いて以来。
ウィーン・フィルのラルス・ストランスキー(Hrn)が独奏と指揮で客演し、フォルカーさんがエキストラ出演されたりという演奏会だったことを思い出す。
 
今日は1階が8~9割の入り。2階は客を入れなかったのだろうか。
ただしさる音楽鑑賞団体の催しだったので、楽章間で拍手が起こるなど、ちょっと残念。
 
曲目は、
ベートーヴェン;Vnソナタ第7番
スヴェンセン;ロマンス
ブル;ポラッカ・ゲッリエラ
ヌールハイム & テレフセン;独奏Vnのためのカデンツァ
ラヴェル;ツィガーヌ
後半はピアノ三重奏の編成で
グリーグ;アンダンテ・コン・モート
ショスタコーヴィッチ;P三重奏曲第2番
というもの。
共演はホーヴァル・ギムゼ(P)、ヤン・エリク・グスタフソン(Vc)。
ギムゼ(1966年生れ)は録音も出ており、これからのノルウェーを代表するであろうピアニスト、またグスタフソン(1970年生れ)も力量充分の名手とのこと。
 
ステージに登場したテレフセン、髪の毛はすっかり白いのだが、無造作に弾き始めたヴァイオリンには年齢の陰などさらになく、立派の一言に尽きる音楽。
1曲目のベートーヴェンは、第1楽章から古典の格調と、憧れや愁いといった情感の横溢とが両立していて感嘆三嘆。
「アダージョ・カンタービレ」の第2楽章では、木質の音色による優しい子守歌に、ただただ聴き惚れるのみ
暗い情熱に満ちた終楽章も、聴き応え充分。
独墺派の正統からは少し外れた音楽づくりだと感じたが、それこそが「北欧の香り」(パンフレットから)という所以だろう。
 
続くスヴェンセンは、元来管弦楽伴奏の作品だが、これはギムゼのピアノが素晴らしく、前奏では漆黒の宇宙にまたたく星の神秘的な輝きを思わせた。
独奏の旋律は題名どおりのロマンティックな歌ふしなので、そちらがちょっと聴き劣るほど。
もちろんテレフセンにとっては手の内に入った小品、文字通りの北欧の抒情を堪能できた。
 
初めて聴くブル作品は、技巧的なショーピース(ちょっとパガニーニの楽曲を連想させる)。
これも鮮やかに弾ききった。
 
テレフセンに献呈されたVn協のカデンツァを独立させたヌールハイム & テレフセン作品は、ヴァイオリンの音の諸相を描き尽くそうとしたような多種多彩なテクニックの連発。
ヴァイオリンでは足りないのか、足でリズムを踏んだり口を鳴らしたり(笑)、という多彩さ。
 
前半の白眉はラヴェルで、まさに完璧。
鈍色(にびいろ)がかったヴァイオリンの音色から、フランス系ヴァイオリニストとはまったく違った音楽が展開された。
 
後半から登場したチェリスト、グスタフソンは、まず巨体に圧倒され(チェロが小さく見える)、ついで朗々たる音色と完璧な技巧に舌を巻いた。
未完に終わったP三重奏曲の第1楽章となるはずだったグリーグ作品、なるほどピアノ・トリオとしては少し書法に問題がある感じがした。
三重奏曲というより、ピアノと「8本の弦を持つ弦楽器」のための二重奏曲という趣。
とはいえ、ちりばめられたグリーグの旋律美やピアノのグランドマナーには聴くべきものがあり、埋もれてしまうには惜しい音楽と思われた。
 
結論から言えば最も素晴らしかったのは最後のショスタコーヴィッチ
寂寥感漂う第1楽章、力感たっぷりの第2楽章を経て、第3楽章冒頭のピアノの凄まじい響き!
弔鐘を思わせる和音の連打なのだが、その中から滲み出る色彩感に圧倒された。ギムゼ、やはり素晴らしいピアニスト。
それを受けるチェロの濡れた音色もまた素晴らしい。
更に圧倒されたのは終楽章で、泣き笑いの行進がやがて号泣となり、そして涙も凍る終結に到達する
合奏の力強さ、緊密さ、とにかくショスタコーヴィッチの音楽だけを感じさせる没我の演奏だった。
もうアンコールは聴きたくないくらいだったが、聴衆も盛り上がっており、第2楽章が2割増くらいの超高速で演奏された。これはさすがにヴァイオリンも乱れ気味。

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2005年04月10日

宇野功芳の「すごすぎる」世界

4月1日の記事に書いた人事異動の影響で、いくら時間があっても足りない状況ではあるのだが、これだけは聴きに行かずばなるまい。
宇野功芳(指揮) 大阪フィル
「宇野功芳の "すごすぎる" 世界」
会場はザ・シンフォニー・ホール。
超満員とはいかないが、ほとんど満席に近い状態。
司会者が「新幹線で来た人~」と呼びかけるとワラワラと拍手が起こり、さすがにと頷かされた。
何といっても宇野師が8年ぶりでプロのオーケストラを指揮する機会なのである。
また大阪では5年前にアンサンブルSAKURAを指揮して以来、もちろん大阪フィルとは初めての顔合わせ。
客席を眺めた感じでは、いかにもコアなマニアという人よりも、長年クラシックを聴き宇野師の評論も目にしてきたという雰囲気の年配の方が多かった。
とはいえ若いカップルや子ども連れも散見され、多少心配に…(笑)。
 
入口で渡されたプログラムを開けて吃驚、
客演コンサートミストレス 佐藤慶子
とのこと。
佐藤さんは、かつて宇野師が10回にわたって開いた「オーケストラ・リサイタル」で、今は亡き新星日響のコンサートミストレスを務めていた奏者。
おそらく大フィル側のローテーションの問題ではなく、指揮者の要望で招かれたものと推測される。
それでなくてもハラハラする宇野師の指揮で、客演するオーケストラを率いなければならないのだから、御辛苦は想像に余りある。
 
さて、今日の曲目は
モーツアルト;歌劇「フィガロの結婚」序曲
同;交響曲第40番
ベートーヴェン;交響曲第5番
というもの。
お得意の曲目ではあるが、斉諧生としては今ひとつ期待しかねるプログラム。過去の実演ではあまり感心したことがない。
むしろワーグナーブルックナーの方が聴きたいのだが、まあ仕方ないだろう。
 
なお、オーケストラの編成は、弦がモーツァルトでは14-12-9-8-6、ベートーヴェンでは16-14-12-10-8、管は2管編成でHrnのみ4人だったか。
 
さて、「フィガロ」序曲が始まって驚いた。
あまり遅くない!
もちろん通常のテンポよりは遅いのだが、かつてのお化けでも出そうな物々しい遅さではなく、まず音楽がもたれない程度で収まっている。
とはいえ弦の細かい音型がくっきりしないのは、やはりオーケストラが不慣れなせいか。
もっとも75小節からの全合奏での和音や101小節からのFgソロの部分で大減速するのはいつもどおり。
コーダ直前の弱奏でも減速、ここは夕暮れの雰囲気が醸し出され、なかなか佳かった。
コーダも意外に速く、クレンペラー盤でくっきり聴こえる木管の下降音型がはっきりしなかったが、終結では案の定ティンパニが最強打、胸のすく思い。
司会者が言うには、リハーサル初日に「『春の祭典』のように叩いてください!」という指示があったそうな(笑)。
 
1曲目のあと司会者が出てきて、ひとくさりやりとりがあったのだがそれは↓にまとめることとして、交響曲第40番
例によって主題3小節目の上行音型にポルタメント、ただしディミヌエンド付きなので、あまり煩わしくない。
すこし音楽がすっきりしたのかなと思ったが、10小節目からの経過句では相変わらずの大減速。
これ以降、「ロマンティック」(指揮者談)どころか、めまぐるしくくらいの加速・減速で、音楽の流れに乗ることができなかった。
211小節の頭に、ワルターばりのルフトパウゼを入れるのもいつもどおり。
もっともかなり「タメ」が入ってしまい、あまりスマートなパウゼにならなかったが。
 
続く第2楽章は、遅めのテンポで始まった冒頭、Va→第2Vn→第1Vnと受け渡される動機にディミヌエンドが付され、非常にはかなげな響きがして、これは気に入った。
17小節でFlが入ってからはテンポが上がり、普通の音楽になってしまって残念。
53小節(展開部)冒頭は陰の濃いpからクレッシェンドし、地の底から湧き上がってくるようなデモーニッシュな感じがして、さすがと思わされた。
 
どうなるかと思った後半2楽章は、硬いリズムに終始したメヌエット、普通の速さでほぼ押し通した終楽章と、見るべきものがなかった。
終楽章の展開部冒頭もあっさり通り過ぎたのにはガッカリ。
 
さてメインのベートーヴェン
いつも問題になる第1楽章冒頭の主題は、完全にコンサートミストレスのタイミングで入っている。フェルマータはもちろん長目。
もっとも主部に入ると結構早めのテンポでサクサク進んでゆく…と思いきや、やはり第2主題は遅く粘る。
提示部の繰り返しあり。
展開部に入ってCbのピツィカートの強調や196小節からの減速など、なかなか面白い。
再現部でのObソロ、かなり遅いテンポで吹いているわりには無表情。
指揮者は棒を下ろしているのだが、奏者の自発性は無さそうな感じ。
(そうそう、宇野師は久しぶりに指揮棒を使っていたのである。)
コーダではやはりティンパニが「春の祭典」ばりに大活躍、479小節・481小節のフェルマータを思いっきり伸ばして締めくくり。
 
低弦の素晴らしい響きで始まった第2楽章は、モーツァルト同様、全曲の白眉か。
39小節以下で弱音と遅いテンポで粘ったのも聴き応えあり、105小節以下では弦を抑えて木管の煌めきを聴かせた。
 
これもモーツァルト同様、第3楽章はあっさり目に通過。
移行部ではかなり粘った上、最後は更にリタルダンドしてティンパニを最強打させた…のだが、肝心のフィナーレ冒頭が腰砕け気味。
26小節以下、ホルンが幅の広い英雄的な主題(推移主題)を吹き流すところ、ティンパニの刻みで強拍にアクセントを付けさせたのは効果的だった。
こちらは提示部を繰り返さず。
展開部113小節以下でトロンボーンの動機を強調したのは、他にも例はあるが、面白し。
コーダではやはりティンパニが最強打、最終小節では後半のトレモロで音量を上げさせたのには思わず笑ってしまった。
カーテンコールでも単独で起立させたのはティンパニのみ。
 
アンコールは十八番「ハイドンのセレナード」
これは絶品。第1Vnは、おそらくコンサートミストレスが絞ったのだろうと思うが、見事に美しい弱音を聴かせてくれた。
妙に思い入れがないのが却って幸いして、実にすっきりした表情。
もちろんポルタメントは付いているのだが。
かつて新星日響でも聴いているが、もしかしたら最上の出来栄えではないかと思う。
 
以上、やや分析的な書き方になってしまったので、全体的な印象を書いておきたい。
テンポの動きが激しく、音楽の流れを分断してしまっている。
思い入れ(思いつき?)のあるところで部分的に減速して粘るのは良いとしても、そのあとすぐ巡航速度に復帰してしまうので、とってつけたような変動になってしまう。
遅くするならするで、指揮者もオーケストラも、それだけのエネルギーを投じてほしいのだが、どうも「お約束」にしか聞こえない。
 
指揮者の動作を見ていても、かつてのような没入ぶりを感じさせたのはベートーヴェンの第1楽章後半くらい。
あとは淡々とした振りで、テンポだけを操作する印象を受ける。宇野師が賞揚する「命を賭けた遊び」の境地にはほど遠い感じだ。
 
『レコード芸術』での筆鋒同様、宇野師の音楽も鈍ってしまったのだろうか。
今一度、生の火花を散らすような、本当の「凄すぎる世界」を聴かせていただきたいと切に願う。
なお、補助マイクも多数立っており、司会者もライヴCDの発売が予定されていると述べていたことを付け加えておく。
司会者と宇野師の会話及び「生演奏で聴き比べ」の顛末は以下の如し。
 
(1曲目と2曲目の間)
「3日前に大阪入り、朝比奈隆氏の墓参をして、助けてくださるように祈った。」
「モーツァルトとブルックナーでは、今はモーツァルトの方が好きである。理由は『チャーミング』。」
「いちばんロマンティックな曲として、第40番を選んだ。」
 
聴き比べは、40番第1楽章の冒頭約40小節を「普通のテンポ、スタイル」で演奏し、あとは本番。
 
(休憩後)
「ベートーヴェンで一番やりがいがあるのは『第九』」
 
第9番スケルツォの第2主題で、原典版・ワーグナー版(Hrnが主題を補強)・ワインガルトナー版(Trpが主題に加わる)の3種を聴き比べ。
 
「『第九』4楽章の最後は大爆発。それに対して1~3楽章の終結は疑問形だと考えている。」
 
第9番第1楽章の終結、約35小節程度を、普通のスタイルと「宇野版」で聴き比べ。

投稿者 seikaisei : 22:17 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月19日

ステーンハンマル友の会のコンサート

久々に東京へ出かけ、コンサートを聴く。
目的は、トップページにリンク・バナーを掲げているステーンハンマル友の会によるサロン・コンサート。
昨年10月から始まっているが、シリーズ5回目にしてようやく参じることに。
それというのも今日の曲目は
モーツァルト;Vnソナタ第28番 ホ短調 K.304
ステーンハンマル;Vnソナタ イ短調 op.19
プロコフィエフ;Vnソナタ第2番 ニ長調 op.94bis
ラヴェル;ツィガーヌ
ステーンハンマルのVnソナタが聴ける! これを逃さずにおられようか!!
60人ほどが座れる会場はほぼ満席、北欧音楽MLのメンバーの顔もちらほら見える。
 
演奏は青木 調(Vn)、和田記代(P)のお二人。
青木さんは前にここで2つのセンチメンタル・ロマンスほかを聴いた。…と思って調べたら、平成12(2000)年12月だから、もう4年以上前のこと。
出演者紹介に掲載されているとおり、昨年10月からはNHK響の契約団員として活躍しておられる。
 
和田さんはもちろんステーンハンマル友の会の中心人物。
ちょうど昨年2月にP協第2番の2台ピアノ版を聴かせていただいて以来になる。
 
それぞれ演奏の前に曲の簡単な紹介があり、ステーンハンマルについては
作曲家はピアニストだったが、ピアノが入った室内楽曲は意外に少なく、完成された作品としては、このVnソナタのみ。
息の長いフレーズと和声の移ろいが特長。
演奏者としては、Vnのフレーズが長く不定形な点(4小節、8小節といった規則的な把握ができない)、Pパートが技術的に大変(大きな手が前提になっていると思われる)、といったあたりが難しい。
というコメントがあった。
 
ステーンハンマルとしては初期の作品(1900年完成)で、当時よく共演したVn奏者・作曲家トゥール・アウリンに献呈され、彼ら2人が初演した。
非常に古典的な作風で、ピツィカートは一音もなく、重音奏法も控えめにしか用いられない。
聴いた感じだけでいうと、淡彩のブラームスというか、ハンブルクの巨匠がシューベルトの作風をなぞったような雰囲気がある。
この日は次にプロコフィエフが演奏されたこともあって、特にその印象を強くした。
ただし、上記の演奏者のコメントにあるように、一筋縄ではいかない面もあるようだ。
 
全曲で約20分程度、第1楽章 Allegro con anima は、気持ちのこもった(しかし控えめな)嘆きの歌、 "con intimissimo sentimento" (極めて内面的な感情をもって)と指定された第2楽章 Andantino での心の慰めは、この曲の核心。
非常に歌謡的な楽章で、ちょっとシューベルト幻想曲あたりを思わせる。
心の襞を優しく心地よく掻いてくれるような、いつまでも身も心もゆだねて揺られていたい音楽、とでも言えようか。
第3楽章 Allegro は、かすかに民族調を帯びた愛らしい主題による、弾むような音楽となり、喜ばしげに曲を閉じる。
 
青木さんのヴァイオリンは、前回もそうだったが、端整で美しい音程と音色清潔かつ誠実な音楽が持ち味。
この曲でも、ステーンハンマルの良さをきちんと引き出しておられ、特に第3楽章が立派な出来だった。
欲を言えば、2楽章はもう少し纏綿とした歌が好み。
プロコフィエフの緩徐楽章でも同じ印象を受けたので、それは彼女の行き方ではないのだろう。
 
和田さんのピアノは、雄弁ながら出過ぎない表情が、音楽を立体的にしている。弱音の柔らかく美しい音色も素晴らしい。
独奏では時に感興を抑えきれない情熱のほとばしりに、聴いている側は多少ハラハラすることもあるピアニストだが(失礼お許しを<(_ _)>)、今日のような室内楽ではよくコントロールされている。
上記のコメントどおり、見ているとけっこう忙しそう。聴こえてくる音楽の優しさとは裏腹に、ずいぶん手のこんだ書法になっているようだ。
 
ともかくこれだけの高い水準でステーンハンマルを聴けたのには満足を通り越して歓喜々々。
来る7月3日(日)には、東京オペラシティ・リサイタルホールで、このVnソナタを含む、オール・ステーンハンマル・プログラムの「スウェーデン音楽の調べ Vol.2」が予定されている。
ぜひぜひ一人でも多くの方に足をお運びいただき、実際に彼の音楽を聴いていただきたいと念願する。
他の曲については簡単に…。
モーツァルトでは青木さんの美質が前面に出て、木質感のある美しい中低音に聴き惚れつつ、古典の格調の中に込められた嘆きに心を打たれた。
 
プロコフィエフは当日の白眉。
音楽の振幅の大きさ、多彩な表情(ヴァイオリンもピアノも)。
これと並べると、ちょっとステーンハンマルも旗色は悪いかもしれない…(苦笑)。
ただし、これはもう少し大きな会場で聴きたかったという気もする。
 
ラヴェルも格調高い再現。
曲が曲だけに多少の崩しというか媚態があってもと思うが、それは斉諧生の好みにすぎないだろう。
 
アンコールはドビュッシー;亜麻色の髪の乙女
 

投稿者 seikaisei : 22:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月06日

ボッセのベートーヴェン・アーベント

地元のホール高槻現代劇場で、ゲルハルト・ボッセ(指揮) 大阪センチュリー響の演奏会を聴く。
ボッセ氏は高槻市に住んでおられ、当地でのコンサートは今日が5回目とのこと。
前回までの情報をまったく知らず、聴き逃していたのは残念。
このホールは阪急高槻市駅から徒歩5分以内、京都・大阪の中間点にあって特急が停車するのでどちらのターミナルからも30分以内で来場できる。
もっと企画とPRに励めば、ここを中心とした豊かな音楽文化が栄えるのでは…と期待したいところである。
 
中ホールは約600席、音響は悪くなく、室内楽、小編成のオーケストラや合唱に良い器ではないかと感じている。
今日は8~9割の入り。
 
オール・ベートーヴェン・プログラムで、
序曲「プロメテウスの創造物」
交響曲第1番
Vn協(独奏;カトリーン・ショルツ)
と、コンチェルトを休憩後に配する。
 
ボッセ氏は、昨年7月10日の項に記した講演会で、ベートーヴェンに対するC.P.E.バッハ等の影響を強調し、ピリオド・アプローチによる演奏への共感を強く打ち出しておられた。
例えば、
自分としては、過去のドイツの大家の演奏解釈には、今となっては共感しかねるところがある。
フルトヴェングラーやワルターといった大指揮者は、19世紀の音楽の伝統を受けつぎ、マーラーやR・シュトラウスなどの響きのイメージの中で音楽を創っていた。
それに対し、18世紀のC.P.E.バッハの音楽はまったく別な世界である。音もべったり作ってはいけない。アーティキュレーションが重要で、音の頭・延ばし方・終わり方・次の音(または休符)を注意して作っていくと、まったく別な響きが得られる。
ラトルの演奏は、ところどころ素晴らしく、共感できる。
ジンマンの演奏は、おそらく最も速いものだろうが、合理的だ。
アーノンクールも、なかなか良い。
 
実際の演奏が、どの程度まで古楽風になっているのか、非常に興味を持って聴きに出かけた。
管弦楽の編成は、弦が10-8-6-6-4、管楽器はもちろん2管。
下手に第1Vn・第2Vn、上手にVa・Cbを配置するやり方で、高関健のもとでは対向配置を実践していたオーケストラだけに、もしかしたらあまり徹底したモダン・ピリオドではないのかもしれない、と予感した。
 
なお、昨年5月に左上腕骨と左大腿骨を骨折されたボッセ氏だが、椅子も用いず、終始元気に指揮しておられたので安心した。
 
序曲冒頭のトゥッティは音価を短めに取っており、やはりピリオド…と思ったが、ヴィブラートは排さず、自然に弾かせていたようだ。
一言でいえば、キビキビしたベートーヴェン。
 
交響曲でも、快速でキビキビした音楽は同様。
終楽章コーダに向けての追い込みでは、ホルンや木管を音を割り気味に強奏させ、迫力ある表現をとる。
 
目立ったのは、長い音符での音の減衰や、フレーズの中でのデクレッシェンドを多用し、清潔な美しさを表出していたこと。
例えば第3楽章のトリオ冒頭、木管がpで繰り返す和音をそれぞれデクレッシェンド。
ヴィブラートも控えめに使わせており、第2楽章展開部冒頭のppでは、神秘的な和音がくっきりと浮かび上がった。
 
休憩後の協奏曲では、独奏者のスタイルが前面に出て、ドイツ伝統の新古典的な演奏様式を聴くことになった。
デビュー当時の「お嬢様」イメージが強いショルツだが、実際にはけっこう大柄だったので目を見張った。
1969年生れというから30歳代半ば、既にベルリン室内管を10年間率いるからには、それなりに逞しい人なのだろう。
髪も短くしており、がっちりした肩に、引き締まった体型。
 
音楽も、所謂女流ふうのなよやかな媚や何か風変わりなことをする素振りは毛筋ほどもなく、堂々たる正攻法、ドイツ伝統のベートーヴェン。
第1楽章開曲早々は高音に少し硬さも聴かれたが、中低音の美しい音色と和音感覚をベースにどんどん調子を上げていく。
ヨアヒムのカデンツァなどは間然とするところなく弾ききった。
もちろん剛球一本ではなく、第2楽章後半で独奏Vnが新しい旋律を出すところなど、ゆったりしたテンポで実に美しい。
 
贅沢を言うとすれば、技術的・音楽的にもう一次元上に突き抜けて、心の底からの幸福感、更には神々しさをも顕現するような音楽であれば…といったところか。
華やかなスター奏者としては扱われていない人だが、実力は十二分、今度はブラームスの協奏曲あたりで聴衆を圧倒するところを聴いてみたいと思わずにはいられなかった。
 
アンコールはバッハ;ジーグ (無伴奏Vnパルティータ第2番より)
かなり急速なテンポで弾かれ、ちょっと技巧曲じみた感じがしたのは僻目か。
なお、休憩後、後半の演奏に入る前に、ボッセ氏のレクチャーがあった。大意、次の如し。
通訳は、いつものように美智子夫人。
 
ベートーヴェンがVn協を作曲したのは36歳の頃だが、今日はそれに近い時代の作品を3曲採り上げた。
序曲は、はじけるような力強さがみなぎる曲。
 
交響曲は、短めの曲だが、「ハイドンの105番」とも言える作風である。
作曲は1800年、まさに18世紀の様式の結晶となっている。
しかし、この最初の交響曲の中に、ベートーヴェンの大きな世界が、エッセンスとして入っている。
 
Vn協になると、作曲技法が進んでおり、第1楽章だけでモーツァルトやバッハの作品と同じくらいの長さがある。
古典派の範疇に収まってはいるものの、ロマン派の時代を予感させる、大きな構想がある。
特にオーケストラのトゥッティの大きさは、新しいものだ。
Vn独奏は、技術的にも難しいし、かつ、トゥッティを長い間、待たなければならないという苦しみもある(笑)。
私もこの曲は50回、60回と弾いてきたが、延々と待つのは辛いものだ。
第2楽章は、本当に美しく、心の奥底に届く音楽である。
ベートーヴェンがこの曲に取り組んでいた頃、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたことを思い出さずにはいられない。
彼は、耳の病気という困難を作曲を通じて克服し、音楽によって人々に希望を与えた。
第3楽章は、ツグミの鳴き声をモチーフにしている。
 
大阪センチュリー響とは初めての共演だが、2日間、良いリハーサルができた。
我々がすぐに理解しあえたことは、音楽に現れていると思う。
 
ショルツさんとは、17年ぶりの共演になる。
1988年のバッハ・コンクールで、受賞者の演奏会を指揮したのが私だった。
一昨日、17年ぶりに会って話をしたところ、彼女の夫君が私の昔の生徒であることがわかって驚いた。
彼女の楽器は夫君の父上のものを使っておられるのだが、実は私も50年来、知っている楽器である。

投稿者 seikaisei : 23:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月02日

大阪シンフォニカーのシベリウスを聴く

久々にオーケストラの定期公演を聴きに出かける。大阪シンフォニカーの第98回定期で、会場はザ・シンフォニー・ホール。
大阪での平日19時開演は京都から参じるにはチト厳しく、何度か行きたい演奏会を逃していた。
今日は幸い早めに退勤でき、最も聴きたいプログラムを逃さずにすんだ。
すなわち、
シベリウス;交響曲第7番
猿谷紀郎;音の風韻II
シベリウス;交響曲第5番
という、シベリウスの後期交響曲2曲を採り上げるもの。
猿谷作品はオーケストラの委嘱新作とのこと。
 
ただ、事前に少し心配だったのは指揮者が山下一史氏という点。
北欧のオーケストラを指揮した経験が多いこと(ヘルシングボリ響マルメ響等)を買われたのかもしれないが、斉諧生の知るかぎり、この人は熱っぽい推進力が持ち味。
悪く言えば「煽り系」の人ゆえ、第1・2番あたりなら格別、後期作品に適合するかどうかは問題だと思っていた。
 
そうした先入主のせいとは思いたくないが、満足のゆかない結果となってしまった。
 
第7番は、弦合奏の響きが厚ぼったくなってしまっている(合奏の精度が低い)等、練度が低い印象を受けた。
弦の編成は14-12-10-8-6。
また、木管の性格的な音色を生かし切れておらず、金管の厳しい打ち込み(短く「ババッ」と吹き抜く部分)が意味を持たない等、斉諧生として「これぞシベリウスの音楽の醍醐味」という「ツボ」を外された感が拭えない。
 
特に全曲終結の直前、第1・第2Vnだけになって、全音符をクレッシェンドで弾き上げて、「Affettuoso」指定の絶唱を歌う部分。
ここで胸に沁みるような響きを奏でてもらえなかったのは、たいへん残念だった。
もっとも、斉諧生はシベリウス(とブルックナー)の演奏に関して「かくあるべし」が強すぎることは自覚しているので、その点は割り引いてお読みいただきたい。
 
また、この曲の終結は、けっして「閉じられる」ものであってはならず、解決しないまま消え入ってゆくもの、敢えて言えば「永劫回帰」の無限の世界へ溶けこんでいく趣を表現しなければならない。
非常に狭い考えといえば狭いのだが。
ここが満足できたのはベリルンド(指揮) ヨーロッパ室内管盤(FINLANDIA)のみ。
その点、当夜の演奏は、やはり「終止符を打つ」傾きを強く感じたと言わねばならない。
 
7番で失望したのが祟って、オーケストラはかなりよく弾いていた第5番の評価も、辛くなってしまう。
第1楽章最初の高揚で既に「煽り」傾向が感じられ、北欧の厳しい大自然を仰ぎ見る趣を失ってしまった。
ややあって長大なソロを吹くFgも、自然音ではなく人間の歌になっており、斉諧生のシベリウス演奏の理想とは食い違う。
楽章後半への入りや楽章終結も、騒ぎすぎというのが正直な感想である。
 
第3楽章の終わり近く、Vc以上の弦楽器が第2主題を奏ではじめ("Un pochettino largamente")、更にTrpが動機を反復しだすと("largamente assai")、Va以上の弦楽器が第2主題の前半を2度繰り返す。
ここでの浄福感こそがシベリウスを聴く喜びであり、音楽を聴く幸福である。
さすがにVnなど気持ちのこもった響きを聴かせてくれたが(コンサートマスターは森下幸路)、もっともっと…と思わずにはいられなかった。
 
なお、最後のTimpは、前打音を極力近づけて目立たなくする処理。
 
初演の「音の風韻II」は、オーケストラが色彩豊かな雲のようにたなびく中を、オーボエ独奏が官能的に歌い、ギターがそれに和す、という曲調(演奏時間20分ほどだったか)。
オーボエの美しい音色を堪能させてもらったが、ギターは見せ場(聴かせどころ)が乏しく、少々気の毒な感じがした。
 
なお、一言しておきたいのはプログラムの冊子に掲載された雑喉潤氏のシベリウス作品解説の酷さ。曰く、
第5番と第7番は、シベリウスの交響曲のなかでは、日本では演奏の機会のもっとも少ない2曲である。
統計的には第3・6番の演奏頻度が最も低い筈である。
ベートーヴェンの交響曲は、3・5・9と奇数ナンバーの作品が名曲とされるが、シベリウスは反対に2・4・6と偶数ナンバーの出来がよいといわれる。しかしこれはあまりに通俗的な評価にすぎず
第4・6番が通俗的に高く評価されているとは聞いたことがない。
7番を先に持ってきたのは、(略)演奏時間も約10分と短いからだろう。
一度でも聴いたことがあるのなら、約20分と書くべきだろう。誤植であることを祈りたい。

投稿者 seikaisei : 23:55 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月08日

クリストフ・ブーリエのリサイタル

昨日は大阪でジャン・ギアン・ケラスが無伴奏リサイタルを開いたはずなのだが、このところ本業が忙しく、とても行く余裕がなかった。
今日はたまたまエアポケットが生じたので、職場近くのホールアルティへ出かけることができた。
クリストフ・ブーリエ(Vn) 阿部裕之(P) ほか
「フランスからの響き……」
ブーリエの名は、ルクー;VnソナタのCDがあるので知っていたが、来日は今回が初めてとのこと。
1965年生れ(そんなに若い人とは知らなかった)、パリ音楽院出身で、1984年のロン・ティボー国際コンクールでグランプリを得た。
現在はソリスト、室内管の指導者、教職等、多方面で活動中とのこと。公式Webpageがある。
 
今日の曲目は
タルティーニ;悪魔のトリル
サン・サーンス;アンダルシア奇想曲
ラヴェル;Vnソナタ
パガニーニ;「こんなに胸騒ぎが」による変奏曲
ハチャトゥリアン;組曲「ガイーヌ」(レジ・ブーリエによる2VnとP編曲)
というもの。
ハチャトゥリアンでは台湾出身・京都在住の何信宜(Vn)が共演。
この人が今回のブーリエの来日をアレンジしたらしく、彼女は休憩後にイザイ;無伴奏Vnソナタ第5番を独奏した。
 
ブーリエは、タルティーニの冒頭を弾いただけで、音が自然に淡愁の色を帯びる、優れた弦楽奏者であることを示した。
いくぶん音量が小さめかもしれないが。
こういう古典曲は、あまりごてごてと表現されても困るもので、ほとんど音色で勝負することになる。その点では文句のない、耳の御馳走。
…と思っていたら、カデンツァは左手のピツィカートを駆使する技巧的なもの。誰の作かは知らないが、ちょっと首を傾げる。
 
サン・サーンス作品は、もう一つ魅力に乏しい。曲自体の問題もあるが、奏者も速いパッセージで音がうわずる傾向があり、高音の音程も斉諧生の好みから外れる感じ。
 
メカニカルな面での完璧さや何でもバリバリ弾いてしまう強さには欠けるところのある人かもしれないが、伸びやかに歌う場面では、ひたすら美しい音に魅了される。
フランス系奏者で音が詰まりがちになるG線(いちばん低い弦)でも、隣のD線と同じ音色が美しく響くのである。
したがってラヴェルが非常な美演となり、今宵のハイライト。
第2楽章での主題の歌い方など、ちょっと崩し気味のリズムやポルタメントの掛け方が何とも小粋。
無窮動の第3楽章ではピアノとの駆け引きも愉しい。阿部も冴えた音楽を聴かせた。
 
休憩後のパガニーニでは堂に入った「芸」を聴かせてもらった感じ。
アクロバティックなフレーズでは鮮やかに、歌うところでは美音をたっぷり小節(こぶし)を利かせて。
 
実兄の編曲によるハチャトゥリアン、民族的な旋律をゆったり歌わせ、「レスギンカ」「剣の舞」ではアクションたっぷりの熱演(弓の毛を何本も切っていた)。
ただ、あまり手の込んだ編曲ではなく、Vnを2本使うことの意味もわかりにくかった。
とはいえ客席は大沸き、アンコールは「ガイーヌ」の6曲から。
最初に「レスギンカ」、続いて「剣の舞」、それでも拍手が止まずにもう1曲を繰り出してようやく終演。
 
共演の何信宜さんはよく弾ける人で、イザイも手堅くこなしていたが、何か足りない。
音そのものの魅力、音楽から放射してくる輝き、曲の隅々まで確信が行き渡っている説得力、そういったものがまだ備わっていないように感じた。

投稿者 seikaisei : 23:28 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月04日

スヴァンホルム・シンガーズを聴く

ソフィア・セーデルベリ・エーベルハード(指揮) スヴァンホルム・シンガーズ
昨年6月に来日公演を聴き感激したスヴァンホルム・シンガーズが、地元の高槻現代劇場に出演するとあっては足を運ばざるべからず。
今日は、先週のヒンクと異なり、まともな音楽ホール。
約500人規模、地下3階に位置するのが珍しいが、周囲の騒音(国道171号線や阪急電車が近い)を避けるためか。適度な残響と癖のない響きで、まずまず良いホールであった。
 
ほぼ満席の盛況だったが、これは地元の児童合唱団、男声合唱団とのジョイントというスタイルを採ったためであろう。
最初の30分ほどは、そちらの歌唱にお付き合い。まあ集客戦術だから嘆いても仕方がないが、「唱歌メドレー」「最上川舟歌」程度の選曲は情けなし。もうちょっと意地のあるところを聴かせてほしかった。
 
スヴァンホルム・シンガーズのプログラムも、基本的にクリスマス特集。
これも客集めのためであろうが、ちょっと残念。
 
それでも休憩までの5曲は、基本的には20世紀北欧作曲家の作品を歌い、気を吐いた。
「ディンドン、空高く」(これのみ伝統的キャロル)
ヌードクヴィスト;クリスマス、輝くクリスマス
トルミス;ヴェプサの冬
トルミス;クリスマスがやってくる
マンテュヤルヴィ;擬似ヨイクNT
2曲目での柔らかく美しいハーモニーで、既に聴衆の心を奪った感じ。
3曲目、バラライカの音型を模した「ティン、ティン…」の歌い交わしなど、本当に高いレベルだからこその面白さを聴かせてくれた。
昨年同様、低音の安定したピッチと軽やかな音の伸びは言語に絶し、柔らかい弱音から鋼のような強奏までまったく濁らずまったく歪まず、音楽の美とはこの響きであると結論づけたくなる。
マンテュヤルヴィ作品は民俗的な発声を取り入れた楽しい曲で、歌唱も高揚し、満堂拍手喝采。
 
休憩後の前半4曲は、古いキャロル系の作品。
「来たれ、エマヌエル」(フランス古謡)
「全ての民よ、この日を喜び歌え」(ピエ・カンツィオーネス)
「新しいクリスマス」(フランス古謡)
「今日キリスト生まれたまえり」(グレゴリオ聖歌)
どれも素晴らしかったが、白眉は「全ての民よ~」。やはり北欧の曲集が合っているのか。
素朴な旋律の中から、救い主の誕生への感謝と喜びが、静かに湧き上がってくる、感動的な歌声。
 
最後は「アメリカのクリスマスを歌います」というアナウンスで(日本語が達者な団員がいるのである)、
「ホワイト・クリスマス」
「サンタが街にやってくる」
「マリアの御子」
「星に願いを」
「レット・イット・スノウ」
「星に願いを」以外は、ヨエル・ベクセリウスという人(指揮者の幼なじみらしい)の編曲による。いずれも愉しく美しい演奏だった。
唯一、団員の編曲による「星に願いを」は、ほとんど独唱、他は和声付けという仕立てだったが、このソロがまた甘く美しい歌声で、弱音の美しいハーモニーで曲が閉じられると、斉諧生の後方から女性の溜息が聞こえてきた。
 
締めくくりに、蛇足ながら地元団体と合同で「紅葉」「赤とんぼ」の2曲。
これで終わりか、寂しいな…と思っていると、指揮者が団員を呼び集めて、アンコール。
メンバー4人が前列に並んだので、「あ、去年の演奏会ではこの態勢で『いい湯だな』だった!」と思い出した。
同じネタでは今ひとつかも、という考えが頭の隅をよぎった瞬間、コーラスで前奏が始まると客席からどよめき!
歌い出されたのは「世界にひとつだけの花」!!
ソロの4人がまた、暗譜かつ違和感のまったくない歌いっぷりで、舌を巻いた。もちろん拍手大喝采。
 
更に、団員が客席へ降りて両側に並び、指揮者が向き直って、歌い上げたのは「シェナンドー」(この曲では最初のソロを指揮者が歌う)。
これは昨年のプログラムに含まれており、歌唱の完成度ではそちらが上だったように思うが、それでもなお静かな感動を呼ぶ。
 
とにかくとにかく、この団体が、もっと知られ、もっと聴かれ、その本領を十二分に発揮できるプログラムで演奏会が開ける日が来ますように…!
来年夏にも来日公演の予定があるようなので、楽しみに待ちたい。

投稿者 seikaisei : 23:14 | コメント (2) | トラックバック

2004年11月28日

内藤さんのピアノを聴く

内藤晃(P)
「第7回 珠玉のピアノコンサート」
Web上の知人、内藤さんが奈良で演奏会をなさるというので、お伺いした。
最初に知り合った頃はまだ中学2年生でいらっしゃったが、例えばジュリアス・カッチェンが大好きとか、音楽に関しては既に成熟した趣味を持っておられた。…というより、中2と聞いて驚愕、とても信じられなかった、というのが正直なところ。
彼のピアノは以前オフ会か何かで聴かせてもらったことがあるが、とてもきれいな音と素直で美しい音楽が印象に残っている。
それから数年、指揮にも手を染めて小林研一郎氏のセミナーを受講された、公開の場でピアノをされた等、活躍の御様子は伺っていたところ。
首都圏中心に活動しておられるので、なかなか最近の演奏を聴く機会に恵まれなかったのだが、今回、奈良のコンサートに出演されるというので、このチャンス逃すべからずと参上した。
 
今日の会場は、奈良市音声(おんじょう)館という施設。
興福寺界隈の観光地の南側、「ならまち」と通称される、古い街並みを残す地区の中に、目立たずに(景観を損なわないように)建っている。
「歌声による人づくり、街づくりを目指して」設立されたということで、コンサート会場というより、児童合唱団の練習場や、地元の生涯学習施設として機能しているようだ。
ホールといっても収容人員90、学校の教室程度の広さ。固定席ではなくフロアに椅子を並べる式、ステージの高さも15cm程度か。
問題はピアノで、ベビー・グランドというのか、鍵盤の幅と本体の奥行きがあまり変わらない、悪い喩えだが盥のような代物。
それでも手入れが行き届いておればともかく、妙な付帯音が聴こえたり、ppが出にくそうだったり、かなり状態の悪い楽器のようだった。これは非常に残念。
 
今日の曲目は、
モーツアルト;ピアノソナタ第11番「トルコ行進曲」 イ長調 K.331
ショパン;ワルツ 嬰ハ短調 op.64-2
ショパン;夜想曲 ホ長調 op.62-2
ショパン;舟歌 嬰ヘ長調 op.60
シューマン;幻想曲 ハ長調 op.17
というもの。
恥ずかしながら、モーツァルト以外はほとんど聴いたことがない。ショパンのワルツも聴き覚えがある、という程度。
 
まず、そのモーツァルトが素晴らしかった。
第1楽章の主題に付けられた、そこはかとないリタルダンドから立ち上る哀切な味わい!
続く6つの変奏は、演奏者がプログラムに執筆した「色とりどりの花のよう」という言葉そのもの、まさに花園を逍遙する趣。豊麗な色彩感を放った第1・2変奏に続いて短調に転じた第3変奏での寂寥感の深かったこと!
第3楽章の中間部を、吹き抜ける疾風のように駆け抜けた表現も素晴らしい。
 
唯一引っかかったのは、第1楽章の変奏でも折節にリタルダンドが用いられ、少し煩わしい感じを受けたこと。主題部分では新鮮だったのだが…。
 
馴染みのないショパンの各曲について云々することはできないが、弾き手の感興が率直に伝わって来ていることは確信できた。
 
シューマン作品は、演奏者の最愛の作品の一つとのこと。
これも初めて聴く曲だけにあれこれとは言いづらいが、第2楽章の沸き立つ喜びには胸が熱くなる思いがした。
帰宅してから音盤棚を引っかき回して見つけたイヴ・ナット盤(EMI)からは、そこまでの高まりが感じられなかったことを付言したい。
 
アンコールは十八番エルガー;愛の挨拶
これも、どこに出しても恥ずかしくない見事な演奏。
 
彼が着実に大きく成長しつつあることを実感できた演奏会だった。今後どのような道を歩んでいくのか非常に楽しみである。
 
なお光と風と夢にも、当日の感想が掲載されているので、ぜひ御参照を。

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2004年11月27日

ヒンク・遠山のモーツァルト;ソナタ集

ウェルナー・ヒンク(Vn) & 遠山慶子(P)
「モーツァルトに酔う午後」
今年1月から斉諧生の住む高槻市にウィーン・フィルのヒンクがやってくるというので、駅1つ隣の高槻現代劇場まで出かける。
公的助成が入っているのか、2,000円というから有り難い。
 
ここにはスタインウェイ・ピアノを備えた音楽用ホールもあるらしいが、「シャンソン・フェスティバル」か何かで塞がっており、「レセプションルーム」という、要するに宴会用の大部屋が会場になっていた。天井が低く、床は総カーペット貼り、さてはてどうなることやら…と心配。
幸い、早めに出かけたので前から2列目に席を取ることができ、独奏者から3m程度の距離で直接音を聴くことができた。
 
今日の曲目は、タイトルどおり
モーツァルト;Vnソナタ第30番 ニ長調 K.306
モーツァルト;Vnソナタ第24番 ハ長調 K.296
モーツァルト;Vnソナタ第28番 ホ短調 K.304
モーツァルト;Vnソナタ第40番 変ロ長調 K.454
と、オール・モーツァルト。
 
ヒンクの音色には、まろやかな木質感があり、ffからppまで柔らかな美音を保っている。特に重音の和声感が誠に美しく、これぞ文字通りの「フィル・ハーモニー」と感じ入った。
遠山さんのピアノも、実に典雅で美しい。おそらく古典調律だろう。一音々々から、暖かみを帯びた、そこはかとない哀しみが立ち上る。
 
前半の2曲はオペラのアリアを歌っているような雰囲気が愉しい。
それでもK.296アンダンテ楽章、ソット・ヴォーチェの弱音で歌われた音楽の、身に沁みたこと!
 
母の死を背景に持つというK.304でも、音楽は抑制され、古典の矩を越えた踏み外しは聴かれない。それでいて惻々とした悲しみを歌うのは、2人の音楽性の高さであろう。
 
K.454は、前半の曲と違って器楽的な発想が前面に出ているようだ。
やはり弱音が強調されたアンダンテ楽章での合奏の見事さ!
目に見える限りでは、ほとんど顔も向けることなく演奏しているのだが、音楽は緊密に結びつき、反応しあっている。
 
温かく幸福な、そして哀しい、モーツァルトの音楽に浸り堪能したコンサートだった。

投稿者 seikaisei : 22:32 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月22日

パラシュケヴォフ;ヴァイオリン・リサイタル

ヴェッセリン・パラシュケヴォフ(Vn)のリサイタルを聴く。
ピアノは村越知子
 
パラシュケヴォフ氏の実演には、一昨年から毎夏接しており、今日で3回目になる。
氏はブルガリア出身、レニングラードほかで学び、ヘンリク・シェリングの薫陶を受けた。
1973年からウィーン・フィルの、1975年からケルン放送響のコンサートマスターを務め、1980年から、サシュコ・ガヴリーロフの後任として、エッセン音楽大学の教授を務めている。
日本人の令室とともに毎夏来日、その機会に演奏会を開いたりしておられるとのこと。
 
今日の会場は金剛能楽堂。昨年6月に完成したばかりのホールで、いちど入ってみたいと思っていたので有り難かった。
なかなか珍しいロケーションだが、昨年の演奏会はお寺のホールだったから面白い。
どういう配置になるのかと考えていたのだが、能舞台の下、「目付柱」の外側あたりにピアノを置き、その向かって右側にヴァイオリニストが立たれた。
したがって照明は、奏者・客席(「見所 けんじょ」)の区別がなく、演奏中は明るいまま。
 
またピアノは能楽堂には備え付けられていないので、近隣の中学校から運び込まれた。
中学校のピアノとはいえニューヨーク・スタインウェイのグランド(ただし小ぶり)というからただものではない。何でも14年前に校舎の全面改築を記念して地域の後援会から寄贈されたものという(このあたりが明治以来京都市民らしいところ)。
もっとも主催者によると「長年表舞台での活躍がなかったスタインウェイにも光を当て」たいという話なので、楽器の状態は少々心配だった。
 
今日の曲目は
ヘンデル;Vnソナタ第4番 ニ長調
シューベルト;Vnソナチネ第3番 ト短調
ベートーヴェン;Vnソナタ第9番「クロイツェル」
 
ヘンデルの冒頭から、大げさな表情を排し、どこか淡愁の翳を宿した高雅な音楽が奏でられた。
毎回、この人の渋く暖かい音色には心を打たれる。重音の和声の美しさも特筆したい。
 
シューベルトでは、一節ひとふし音色に変化が与えられ、あたかも歌曲を聴くかのような趣。
会場の音響はかなりデッドで(素直な響きなので不快感はない)、音色の変化が手に取るようにわかる効果があった。
 
前々回から感じていることだが、パラシュケヴォフの音楽は、例えば定規で引いたような(CADで描かせたような、といった方が現代的?)完璧さを誇るものではなく、時に「かすれ」や「滲み」、微妙な「ぶれ」がある。
しかしながら、全体としての音楽にはまったく狂いというものがない。
かつて薬師寺東塔を「凍れる音楽」と評した美術史家があったが、あの三重塔も微細に見れば幾何学的な歪みを免れてはいないだろう。それが全体としては白鳳文化の粋とされる美として成り立っている。
パラシュケヴォフの音楽も同じことではないか…と、演奏者の背後に見える能舞台の檜皮葺の屋根を見ながら考えていた。
 
休憩後のベートーヴェンでは、そのことを一層強く感じさせられた。
第1楽章の激しい力感、第2楽章の雄大な変奏、第3楽章の明るい躍動が、まさに「かくあるべし」という存在感をもって現前している。
聴衆の集中も素晴らしく(客席が間近に演奏者を取り囲むような配置のおかげでもあろう)、今回もパラシュケヴォフ氏の演奏から「ほんとうの音楽を聴いた」という印象を強く受けたのである。
 
残念だったのは、やはりピアノの状態が悪かったこと。
素人の見た目の印象なのでもしかしたら間違っているかもしれないが、ffが鳴らない、ppがコントロールできない、トリルが回らない等々、おそらくピアニストにとっては思った音楽の2割ほども出せなかったのではなかろうか。
 
アンコールの1曲目は、バッハ;無伴奏Vnパルティータ第3番より「ルール」
ここでヴァイオリニストは能舞台に上がり、「正先」の少し奥のあたりに立った。
その響きの素晴らしかったこと! それまでの近くてデッドな音響が一変、やや遠いが美しい響きが得られたのである。
このときは客席が暗くされ、舞台上だけが照明に浮き上がって、まことに幻想的な雰囲気。
一音一音を慈しむような演奏もまた素晴らしく、ぜひこのホールで無伴奏全曲が聴きたいものと、願わずにはいられなかった。
 
2曲目は元の位置へ戻ってヴィニャフスキ;スケルツォ・タランテラ
こうした技巧的な曲をサラサラと弾いてしまうところも凄いが、何より中間部の懐かしい響きが佳かった。
 
最後に演奏されたブラームス;Vnソナタ第3番より「アダージョ」が、また圧巻。
深いヴィブラートをかけた豊かな音色から、深い祈りの音楽が響き渡り、深く聴衆の心に染みいった。
曲が終わっても、しばらく拍手が起こらなかったほど。
 
来年以降もパラシュケヴォフ氏の「本物の音楽」を聴きたい、より多くの人に聴いていただきたいと切に願っている。

投稿者 seikaisei : 23:29 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月21日

ギョーム・ルクー作品の実演

ドビュッシー四重奏団フェニックス・ホールを聴く。
今日の目標はルクー作品の実演を聴くこと。
上記ホールのWebpageでも主催者のWebpageでも、ルクー;弦楽四重奏曲とアナウンスされているのだが、実際のプログラムは弦楽四重奏のためのモルト・アダージョだったので吃驚。
曲目変更の告知もお断りもなかったので、もしかしたら違う曲だという認識がなかったのかもしれない。Vnソナタ以外の知名度は非常に低いのであり得ないことではなさそうな気がする(汗)。
ルクー伝道にも励まねば…と決意した次第。
 
さてそのモルト・アダージョにしても実演を聴くのは初めて。
この作曲家の特徴である「熱に浮いた感じ」は控えめで、どちらかというと落ち着いた優しい音楽になっていた。
特に第1Vn以外の3人の音楽に、その印象が強い。
したがって「暗さ」や「哀しみ」が前面にあらわれ、節目節目に現れるVaやVcによる探るような音型のソロからは、どこか無明の迷路を深くさまよい歩く趣を感じることになった。
 
ルクーの音楽は、もっともっとステージでも聴きたいものである。
VnソナタP四重奏はもちろん、弦楽のためのアダージョや、今日はボツになった(?)弦楽四重奏なども、ぜひぜひ実演で採り上げられてほしいもの。
 
2曲目はドビュッシー;弦楽四重奏曲
団体の名前に負っている作曲家の作品ゆえ、当代随一の演奏を聴かせてくれるのでは…と期待していたのだが、ちょっと違った。
上記したように彼らの音楽は生真面目な傾向が強く、このためドビュッシーの音楽本来の味わいには到達していなかったように思う。
第2楽章での「遊び」の感覚や終楽章のファンタジーなどが、もっともっと聴きたかった。
その生真面目さがプラスに出たのは第3楽章で、弱音の幽玄美が素晴らしく、結尾などどこか遠いところへ連れ去られそうな感じを受けたのである。
 
休憩後はフランク;P五重奏曲
これも斉諧生偏愛の曲の一つだが、実はあまり期待していなかった。
というのも、この団体、毎日のように違うピアニストとこの曲を演奏しているのである。
本来なら一人のピアニストとリハーサルを重ね、彼(彼女)を帯同してツアーを行うべきところ、おそらくマネジメント側が集客上の配慮から地元の演奏者を起用することにしたのだろう。
ゲネプロで「はじめまして」、本番で「さようなら」のような関係では、ろくな音楽になるまい…と諦めていた。
 
この予想が裏切られて「斉諧生は浅はかであった」と反省できればよかったのだが、残念ながら、実際のステージは想像どおりの結果となってしまった。
弦楽の4人については、彼らの生真面目さがもっとも良い成果を上げていたのだが、ピアニストがまったく鈍感。
弦の燃焼にも沈潜にも我関せず、一本調子に音符を音に変換するだけ。何とも情けない思いで全曲を聴き通す羽目になった。
 
また、アンコールがフランクの第2楽章結尾を繰り返すという…(泣)。

投稿者 seikaisei : 23:34 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月12日

オリヴィエ・シャルリエのサン・サーンス

奈良フィルハーモニー管(公式Webpage)の第15回定期演奏会を聴く。
会場は奈良県文化会館・国際ホール。
 
創立20周年記念演奏会ということで、指揮者に秋山和慶を招聘、オール・フランス・プログラム。
ラヴェル;組曲「マ・メール・ロワ」
サン・サーンス;Vn協第3番
ビゼー;交響曲第1番
 
サン・サーンスの独奏者はオリヴィエ・シャルリエ、この人を聴きたくて奈良まで出かけたのである。
シャルリエにノックアウトされたのは2002年1月奥田一夫(Cb)とのデュオ・リサイタルでのフランク;Vnソナタ(ピアノは児嶋一江)だった。
今日は1階中央の前から2列目に席を取り、オーケストラよりもヴァイオリンを聴く態勢。
 
とにかく独奏に関しては、全く間然とするところない素晴らしい演奏。
フランス風の美音と、洗練された節回し。完璧と思えるボウイング、音がよれたりぶれたりすることがない。
攻めるところは敢然と攻め、引くところはすっきりと引き、ヴァイオリンを聴く醍醐味を満喫できた。
第2楽章終結のフラジョレットの連続でも、まったく危なげないばかりか、本当に美しい音がする。
 
CD録音も少なくはない人だが、もっと知られてよいのではなかろうか。
もしかしたら、音そのものの強烈な魅力という点で一歩を譲る(美音ではあるのだけれど)のがマイナスなのかもしれない。
 
拍手に答えてアンコールにジャン・マルティノン;ソナチネ
作曲者は有名な指揮者と同一人物だろう。作品番号等は不詳。
シンコペーションを多用した無窮動風の急速な音楽で、胸がすいた。
更にもう1曲、弦楽合奏を従えて、文部省唱歌;紅葉(編曲者不詳)。
つまり"秋の夕日に照る山紅葉~"、編曲者不詳。
これも暗譜で弾いていたのには感心させられた。
 
ラヴェルビゼーに関しては、さすがに秋山氏というべきか、骨格のしっかりした音楽で、ラヴェルのふんわりした味わいや、ビゼーのキビキビした推進力が、ちゃんと音になっていた。
ただ、オーケストラ側、特に管楽器の表現力が乏しく、良くいえば淡彩の音楽、敢えていえば作品の魅力を描き出せていなかったのは残念。
 
例えばビゼーの第1楽章でObの大きなソロがあるのだが、ちゃんと吹いてはいるのだが音が小さく抑揚を欠く。
指揮者が左手の掌を上に示して「もっと膨らませて!」と指示しているのだが、余裕がないのか、反応できない。
第2楽章で美しい主題を提示する、もっと長いソロでも似たような状態であった。
 
あるいは、サン・サーンス第3楽章のクライマックスでTrbが吹くワーグナーばりのコラールが、力も覇気もない吹奏。
独奏者が困ったような顔をして金管の方を眺めていたのが印象に残っている。
 
更にいえばビゼーの第1楽章で、Hrnの首席奏者がプロとは思えないような大トチリを連発し、2回目にはそのあおりで木管が止まりかけるという大事故に発展していた。
 
このあたりは、もっとプロらしくしていただきたいところだ。
 
アンコールはビゼー;『アルルの女』より「ファランドール」
前記のような状態にいささか興醒めていたので、音楽は盛り上がっていたが、どうにも空虚に響く心地を禁じ得なかった。

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2004年09月05日

六甲フィルのニルセン

神戸市を本拠に活動するアマチュア・オーケストラ、六甲フィルハーモニー管(公式Webpage)の第18回定期演奏会を聴く。
会場は神戸文化ホール・大ホール。
かなり広い会場だが、十分な入りでなかったのは残念。
 
今日の曲目は、
ニルセン;序曲「ヘリオス」 (指揮;松井真之介)
ハイドン;交響曲第104番「ロンドン」 (指揮;森康一)
ニルセン;交響曲第4番「消し難きもの」 (指揮;松井真之介)
という意欲的な選曲(指揮は両氏とも団員)。
京阪地区のプロ・オーケストラが嘆かわしいほど保守的なプログラムを組んでいる中、この団体や、ニルセン;交響曲第3番京都フィロムジカ管ステーンハンマル;セレナードかぶとやま響などの活動が頼もしい。
(もちろん、プログラムの保守性は、一般的な聴衆の嗜好を反映したものなのだろうが…。)
 
演奏の方も、そうした意欲を見事に映し出し、覇気に満ちた立派なもの。
特に、ニルセン;第4交響曲は素晴らしかった。
ニルセンがこの曲に託したヒューマニティへの信頼を、オーケストラ全体が熱く歌い上げていたといっていい。
この曲の聴きどころ(見どころ?)、ティンパニ2台の右顧左眄しない強打はもとより、第3楽章冒頭のヴァイオリン群の悲痛な旋律、第4楽章冒頭の弦合奏の猛スパートなど、入場無料では勿体ないような音楽である。
 
「ヘリオス」も、太陽神の名にふさわしい壮麗さを構築。
冒頭・結尾のチェロの音色も佳かった。
 
ハイドンも、ふっくらした響きを基本にした、暖かい音楽。
ただ、演奏力がもう一段上がらないと、この作曲家の音楽の歓び・生命感が湧き上がってこないように思う。
 
そして、アンコールがステーンハンマル;カンタータ「歌」より間奏曲
ふっくらした暖かい弦合奏の音色が素晴らしく、この曲を初めて耳にした人にも、音楽の美しさを満喫していただけたようだ。
 
全体を通じて、アマチュアゆえの技術的な限界はもちろん多々あったが、それを超えて感興が伝わってくる、良いコンサートだった。
しばしば幼児の叫声が音楽の静寂を破ったのは残念だったが…。

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2004年09月01日

金子鈴太郎・チェロリサイタル

金子鈴太郎(Vc) 本田真奈(P)
ショスタコーヴィッチ;Vcソナタ
バッハ;無伴奏Vc組曲第1番(予告されていた第5番から変更)
ドビュッシー;Vcソナタ
ブラームス;Vcソナタ第1番
もう何年も前になるが公式Webpageを拝読し始めた頃は、ハンガリーに留学中だった金子氏が、昨年秋から大阪シンフォニカーの首席Vc奏者に就任された。
まだオーケストラでの演奏に接したことはなく、今年2月の無伴奏リサイタルは本業の都合で逃してしまったのだが、ようやく実演を聴きに伺うことができた。
 
標記のように、かなり重量級のプログラム。
バッハが第1番に変更になってホッとした(笑)。
リスト音楽院でツァバ・オンツァイ教授に師事し、ミクローシュ・ペレーニマリオ・ブルネロジャン・ギアン・ケラスらのレッスンを受けてきた俊英の演奏が楽しみである。
 
会場は京都市・桂のバロック・ザール。座席数200の小さな、しかし美しいホールである。
入りは6~7割といったところか。音楽学生ないし若手演奏家風の人が多かった。
 
ショスタコーヴィッチは、手堅いけれども少しスケールが小さくはないか…という感想。
「ここはもう少し音を張ってほしい」とか「ここはもう少し激しくアタックしてほしい」といったフラストレーションを覚える箇所が多かった。
奏者が「感じている」ことはよくわかったので、趣味の問題かもしれないが、この曲に関しては更に突き抜けた表現、ツボを押さえてメリハリを付けた演奏を求めたい。
 
金子氏は、先月、第八回松方ホール音楽賞を受賞されたばかりだが、その本選でバッハ;無伴奏Vc組曲第1番を演奏されたとのこと。
自撰のプログラム解説に、
本日のバッハは皆様に何かを語りかけたいと思います。
と書かれていたとおり、音楽を完全に手の内に収めた自在なダイナミクスやフレージングで、まさに語りかけるようなバッハ。
ときに聴き慣れない装飾音の処理等がみられたが、あるいは演奏者独自の工夫であろうか。
ただ、ちょっと音楽が内向きに過ぎるような印象を受けた。
速めのテンポや軽めの音作りだからといって直ちに否定するつもりはないが、バッハの音楽が持つ、いきいきとした生命感や、聴いていて胸の内に歓びが湧き上がってくるような心地を感得するには至らなかった。こちらの鈍感さのゆえかもしれないが…。
 
休憩後のドビュッシーでは前半の印象を払拭、多彩で大胆な表情を楽しめた。
またブラームスも、こみ上げる熱い思いがじわじわと伝わってくるような音楽、底光りのするロマンティシズムが、しっかり表現されていたと思う。
 
技術的には申し分なく、例えばショスタコーヴィッチ第2楽章など、鮮やかに弾きこなされ、間然とするところのない出来だった。
表現をスケールアップさせることや、音色を一層洗練させることなど、更に精進を求めたい部分は残っているが、将来の大成が期待できる若い奏者に出会えたことを素直に喜べる演奏会であった。
 
アンコールはガーシュウィン;3つの前奏曲より第1曲
ハイフェッツによるVn用編曲をもとに演奏されたとのこと。

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2004年08月28日

広上・京都市響のショスタコーヴィッチ

広上淳一(指揮) 京都市響の演奏会へ行く。
会場は京都コンサートホール
入りは6~7分程度か。曲目の渋さを考えるとまずまずかもしれない。すなわち今日の曲目は、
ショスタコーヴィッチ;交響詩「十月革命」
チャイコフスキー;Vn協(独奏;米元響子)
ショスタコーヴィッチ;交響曲第6番
というもの。
一瞬、オール・ショスタコーヴィッチ・プロと見間違えそうだが、う~ん、その方が集客がよかったかも(…そうでもないか)。
 
広上は京都市響定期初登場だそうだが、平成2年に特別演奏会という名目の主催演奏会を指揮している。
曲目はハイドン;「軍隊」チャイコフスキー;「悲愴」
京都名物テンイチのラーメンのようにコッテリした演奏で、斉諧生がこの指揮者に注目するきっかけになったコンサートだったが、このあと京響は長く広上を招かなかった(苦笑)。
 
さて、「十月革命」は、序奏からずっしりした弦の響きが刮目すべき素晴らしさ、普段の京都市響とは一線を画す出来栄え。
Hrnが少し頼りない音を出していた(特に序奏)のと、相変わらずObが非力なのは、残念だが。
力感も切れ味もある、まことに堂々たる音楽で、こんなに良い曲なのにどうして実演も録音も少ないのか…と不思議がらされた。
広上はノルショピング響と録音もしており、作品を手の内に入れているのだろう。
 
チャイコフスキーの独奏者・米元響子は現在パリでジェラール・プーレに就いているそうで、ジュリアード流とはひと味違ったヴァイオリンが聴けるのではないかと期待して開曲を待った。
案に相違なく、冒頭の音色・和声感覚は温かいもので、節回しも堂に入っており、しっとりした抒情的な音楽が美しい。
一方、スケールが小さいのは気になった。
チャイコフスキーの音楽には、大向こう受けを狙ったどぎつさ・あざとさも含まれているのだが、必ずと言っていいほど、あっさり通り過ぎてしまう。
音量も小さく、激しく弾いている部分でも「迫力」として伝わってこない。
 
小規模なホールでモーツァルトの協奏曲や、室内楽作品でも聴いてみれば、さぞ快かろうと思うのだが、大ホールでオーケストラと張り合うような曲を弾くにはまだまだ…という感じだ。
また管弦楽パートは、広上が音符を掘り起こすかのように丁寧に鳴らしていくので、一層ソロの分が悪くなってしまった。
 
ともあれ昨今逸材揃いの邦人提琴家に、またまた有望な若い奏者が出現したわけで、今後の成長に強く期待したい。
若手ばかりでなく中堅実力派も定期演奏会に招いてもらいたいが。
 
第6交響曲は、いきなり緩徐楽章から始まり、アレグロ、プレストと3楽章構成の特異な作品。
第1楽章のラルゴが、深沈と鳴りわたる。
オーケストラも素晴らしい出来で、ちょっとムント在任時を思い出した。
特にヴァイオリン群が高音域でも音程が乱れず音色が硬くならず美しい響きを聴かせてくれたことや、金管の肉厚の鳴りっぷりには感心した。
 
ただ、ショスタコーヴィッチの緩徐楽章における、胸を締め付けられるような悲痛さや、どこか遠くに連れ去られる心地のする透徹さを感じる瞬間は、残念ながら無かった。
 
間然とするところのない第2楽章を挟んで、第3楽章は、やや意外な音楽。
ショスタコーヴィッチ特有の、つんのめるようなリズムで弦が走り出すこの楽章、広上ならば必ずやオーケストラを煽りに煽り、指揮台の上で踊りまくるのでは…と予想していた。
ところが、さほど速くもないテンポで、それ以上に音楽が落ち着いている。つんのめったり煽ったりというところがなく、きっちりと積み上げられていく感じ。
以前の「阿波踊り」のごとき指揮ぶりも見られない。
 
ここは狂躁の音楽ではないのか…と思いつつ、まずは充実した音楽に拍手を贈ることにした。
 
京響は今年度に入って初めて聴いたのだが、プログラムが入場時に無料で配られるようになっていた。
これまでは(20年来)、毎回、ロビーで販売されているのを購入してきた。最初の頃は100円だったが、近年では300円。
中味も少し愛想の良いものに工夫されており、喜ばしい傾向である。
 

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