「空のひらけたところ」訳詞

 

フランシス・ジャム(手塚伸一訳)
『桜草の喪・空の晴れ間』(平凡社ライブラリー)より

 

 この歌曲集の題名の邦訳には長く悩んでいる。直訳すれば「空の空き地」となるのだが…。
 
 歌詞は、元来、「悲しみ Tristesses」という題の長詩からの抜粋だが、原題ではあまりに暗いことから、作曲者が詩人の諒解を得て、詩集全体の題名 "Clairières dans le ciel" を採ったものである。更に遡ると、これは別な詩の題名で、詩集を編む際に、詩は「神のうちに En Dieu」と改題、"Clairières dans le ciel"は詩集全体の題名とされた。訳者は書名のとおり「空の晴れ間」としておられる。
 
 原詩「神のうちに En Dieu」を閲するに、"Clairières dans le ciel"は宗教的な意味をこめて「天の入り口が開く」とでもする方が適当かもしれない…という気もする。
 しかしながら、曲集に採られた「悲しみ Tristesses」は、ある少女との実らなかった恋を詠う悲歌であり、宗教的色彩は薄い。
 
 これらの情況を勘案して、宗教的な「天」も即物的な「空き地」や「晴れ間」も避け、「空のひらけたところ」を用いることとしたい。

第1曲 「彼女は牧場の下の方へ」
彼女は牧場の下の方へくだっていった。
牧場は、水のなかで育つ浮き草が花盛りだったので、
ぼくはその水に浸った花を摘んだ。
やがて服を濡らして彼女は
高みにあがってきた、
そこも花でいっぱいだった。
彼女は笑っていた、そしてのっぽの少女がよくやる
ぎごちないしなをつくってくさめをした。
ラヴェンダーの花のようなその目だった。
 
第2曲 「彼女は陽気だが」
彼女は陽気だがちょっとこわい。時にそのまなざしは
ぼくの思いをつかまえるようにあげられる。
でも夜が更けると、パンジー咲く小道の
黄と青のビロードのようにやさしかった。
 
第3曲 「時々ぼくは悲しい」
時々ぼくは悲しい。そのとき、いそいで彼女のことを考える。
ぼくは嬉しくなる。でもまた悲しくなってしまう、
どれほどぼくを愛してくれるのかわからないので。
彼女は澄んだ心をもった少女だ。
そしてその胸には、ひとりの男にだけ捧げる
激しい情熱をしっかりと守っている。
彼女は菩提樹の花開くまえに旅立った、
菩提樹は彼女が旅立ってから花咲いたので、
おお、友よ、ぼくは
花のないその枝を見ておどろいたのだ。
 
第4曲 「ひとりの詩人が言った」
ひとりの詩人が言った、若いころわたしは
ばらの木にばらの花咲くように、詩に花を咲かせた、と。
ぼくが彼女を思うとき
心のなかの涸れない泉が急にしゃべりだすようだ。
神さまが百合の花に教会の香りをお与えになったように、
桜んぼのほっぺたに珊瑚をおのせになったように、
ぼくは彼女に、心をこめて
言いようもない素敵な匂いの白粉をつけてやりたい。
 
第5曲 「ベッドの裾の壁に」
ベッドの裾の壁に、母が色黒のお顔のマリアさまの絵を
かけてくれた。ちょっとイタリアの宗教画風の
このマリアさまをぼくは好きだ。
月桂冠の処女(ヴィルゴ・ラウレターナ)、金色を背景にして立つあなたは、
風のそよぎさえおこらない波止場の
けだるく眠る屋台で売られる
いろんな海の幸を思いださせる。
ヴィルゴ・ラウレターナ、あなたはご存知でしょう、ぼくが
彼女から愛されるにふさわしくないと感じてしまう今日このごろ
ぼくの心を元気づけてくれるのは、あなたの香りだけということを。
 
第6曲 「もしこういうことすべてが」
もしこういうことすべてが、ひとつの
あわれな夢にすぎないのなら、そしてぼくの人生に
今一度幻滅をつけ加えるだけのことならば、
そして、暗く物狂おしい想いにかられて、
風や雨のやさしい音のなかにさえ、ぼくの求めるものが
情熱へ誘う空しい声だけだとするならば、
ぼくは癒されることがあるのだろうか、おお、恋人よ……
 
第7曲 「こんど会うとき」
こんど会うとき、手はとりあっても
言葉がでないほどぼくたちは愛しあおう。
あの、いつもふたりが座るベンチでは
生い茂った古い枝があなたの上に影を落とすだろう。
ぼくたちはふたりだけで、そのベンチに腰をかけよう。
長い長いあいだ、おお、恋人よ、あなたは身じろぎもすまい……
あなたはぼくにとってただやさしいものとなる、
そしてぼくは、きっと身震いするだけだろう……
 
第8曲 「あなたはぼくを」
あなたはぼくを、あなたの心全部で見た。
あなたはぼくを、青い空を見るようにじっと見た。
ぼくは目の木陰に、あなたのまなざしを入れた……
そのまなざしが、燃えながらもなんと穏やかだったことか……
 
第9曲 「去年花咲いたこのリラは」
去年花咲いたこのリラは
悲しみの花壇に今年もまた花咲こうとしている。
伸びさかった桃の木は、聖体の祝日の子供がするように
その紅(べに)色の花を青い空に撒きちらしている。
ぼくの心はこの景色のなかで息絶えるべきだったろう。
だって、あなたを狂おしく望んだのは
白と紅色のこの果樹園のなかだったのだから。
今でも、ぼくの心はあなたの膝をひそかに想っている。
ぼくの心を押しのけないで、そっとしておいてくれ、
あなたから離れると、ぼくの心がまた思いだすのだから、ぼくの腕のなかで
あなたがどんなに弱々しく、その胸がどんなに波打っていたかを。
 
第10曲 「二本のおだまきが」
二本のおだまきが丘の上でゆれていた。
男のおだまきが恋人のおだまきに言いました。
ぼくはお前の前ではふるえてしまう、どぎまぎしてしまうんだ。
恋人のおだまきが答えました。一滴一滴と水が磨きあげた岩肌に
私を映せば、私もきっとふるえているでしょう、そして
私だってあなたのようにどぎまぎしてしまいます。
 
風がでてきて彼らふたりをゆすりはじめた、そして
その青い心を愛でみたして、ひとつにしてやった。
 
第11曲 「ぼくが苦しんだから」
ぼくが苦しんだから、神の守り給うぼくの四十雀(しじゅうから)よ、
あなたが苦しんだことも知っている。ぼくたちの心はひとつだった……
真夜中のあなたの長い目覚めも、
あなたの胸をつまらせる思慕のせつなさも、ぼくは知っている。
信頼しきった、清らかなそのいとしい頭が、
おお、花咲く亜麻の妹よ、亜麻のように
時折空をじっと見つめるあなたよ、
夜の闇のなかにうつむいているその頭が、
時としてとこしえにぼくの人生に重みを委ねているようだ。
 
第12曲 「彼女のくれた」
彼女のくれた、文字と日付の入ったメダルを
ぼくは大事に持っている。「祈り、信じ、希望をもて」
でも、ぼくにはそのメダルのにぶい光の方が好もしい。
 
鳩のような首にかかって、深い色になった銀の光よ。
 
第13曲 「オドーの湿った牧場で」
オドーの湿った牧場で、
前にぼくが話した花を摘んでから明日で一年になる。
今日は復活祭の週のうちでいちばんよい天気だった。
ぼくは田舎の青空のなかにどんどん入っていった、
森を通り、草地を通り、畑を通って。
どうして、ぼくの心よ、お前は一年前に死ななかったのか?
ぼくの心よ、お前をまた苦しめようとぼくは
見に行ったのだ、あんなにも苦しみを味わった村を、
司祭の家の前で血を流すばらを、
悲しみの花壇の、ぼくを殺すはずのリラを。
ぼくはあの頃の耐えがたい苦悩を思いだした、
あの小道の赤土の上に倒れこむのを
ぼくはどうやってこらえたのだろうか。
何もない。もう何も持っていないのだ、ぼくを支えてくれるものを。
なぜ今日はこんなに美しいのだろう、なぜぼくは生まれてきたのか?
道ばたの溝の乞食女のようにひっそりと
横たわっているぼくの魂を引き裂くこの疲れを、
ああ、どんなにかあなたの穏やかな膝の上で癒したかったことか。
眠ること、眠れれば。いつまでも眠ること、
青い夕立の下で、胸のすく雷鳴の下で。
何も感じまい。その後のあなたを思うまい。
この青空が、連なる丘を水に似た大気の
目くるめく青のなかに溶かしているのも見まい、
あなたを求めても空しいこの空っぽの青空も見まい。
ぼくの心の奥で、ぼくでない誰かが
声をたてずに重くすすり泣いている気がする。
ぼくは書こう。田舎はよろこびで高鳴っている。
 
……彼女は牧場の下の方へくだっていった。
牧場は、水のなかで育つ浮き草が……
 
何もない。もう何も持っていないのだ、ぼくを支えてくれるものを。

 

リリー・ブーランジェ 年譜を見る

リリー・ブーランジェ 作品表とディスコグラフィを見る

作曲世家リリー・ブーランジェへ戻る

 

トップページへ戻る

斉諧生へ御意見・御感想をお寄せください。