年代 | ステーンハンマルの生涯 | 音楽史 (初演) |
社会 | ||
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年齢 | 主な出来事 | 主な作品(完成年) | |||
1871 | 0 | ストックホルムに生まれる | ヴェルディ;「アイーダ」 | 普仏戦争 | |
1875 | 4 | 父の死 | |||
1887 | 16 | 本格的な音楽教育を受け始める | |||
1888 | 17 | 作曲、対位法、オルガンを学ぶ(〜90) | |||
1889 | 18 | フランク;交響曲 | |||
1890 | 19 | 3つの無伴奏合唱曲 | ブルックナー;交響曲第8番(第2稿) | ||
1891 | 20 | 「フローレスとブランセフロール」、「スネーフリー」 | |||
1892 | 21 | 楽壇デビュー、ベルリン留学してワーグナーに熱中(〜93) | シベリウス;クッレルヴォ交響曲 | ||
1893 | 22 | ピアノ協奏曲第1番、オペラ「ソルハウグでの宴」 | チャイコフスキー;交響曲第6番、ドヴォルザーク;交響曲第9番 | ||
1894 | 23 | R・シュトラウスの指揮で自作(ピアノ協奏曲第1番)を演奏 | 弦楽四重奏曲第1番 | ニルセン;交響曲第1番 | 日清戦争 |
1895 | 24 | アーウリン四重奏団との共演始まる | 3つの幻想曲、ピアノ・ソナタト短調、ピアノ・ソナタ変イ長調 | マーラー;交響曲第2番 | |
1896 | 25 | ヘルガ・ヴェステルベリと結婚 ニキシュ指揮のベルリン・フィルが序曲「高みへ!」を初演 |
序曲「高みへ!」、弦楽四重奏曲第2番、5つの歌 | ||
1897 | 26 | ストックホルム・フィルを初めて指揮 | カンタータ「ストックホルム博覧会」 | ||
1898 | 27 | オペラ「ティルフィング」 | |||
1899 | 28 | アルヴェーン;交響曲第2番の初演を指揮 | シベリウス;「フィンランディア」・交響曲第1番 エルガー;エニグマ変奏曲 |
ロシア、フィンランドの「ロシア化」政策を強化 | |
1900 | 29 | ブルックナー;交響曲第7番・「テ・デウム」を指揮 王立音楽院会員に任ぜられる |
弦楽四重奏曲第3番、ヴァイオリン・ソナタ | ||
1901 | 30 | グリーグ「抒情小曲集」完結 | |||
1902 | 31 | 母の死 | シベリウス;交響曲第2番、ドビュッシー;ペレアスとメリザンド | ||
1903 | 32 | ハンス・リヒターの指揮でピアノ協奏曲第1番を演奏 歌手ヨン・フォシェルの伴奏者としてSP録音 |
交響曲第1番(シベリウス;交響曲第2番に衝撃を受け、破棄) | ||
1904 | 33 | ノルウェーの歌手カリー・モンラッドと恋愛し離婚寸前 | ブー・ベルイマンによる5つの歌、「イタカ」 | マーラー;交響曲第5番 | 日露戦争始まる |
1905 | 34 | この頃から作風の変化始まる | カンタータ「ひとつの民族」(「スヴァーリエ」を含む) | ノルウェー、スウェーデンから分離独立 | |
1906 | 35 | フィレンツェに住む | |||
1907 | 36 | 秋、帰国してヨェーテボリ響の音楽監督に就任 | ピアノ協奏曲第2番、スウェーデン狂詩曲「冬至祭」 | グリーグ歿 | |
1908 | 37 | エルガー;交響曲第1番 | |||
1909 | 38 | 対位法の研究に着手 | 弦楽四重奏曲第4番、「歌と印象」 | ||
1910 | 39 | ニルセン;交響曲第1番を指揮して感じるところあり、新たな交響曲に着手 | 2つのセンチメンタル・ロマンス、弦楽四重奏曲第5番 | シベリウス;弦楽四重奏曲「親しい声」、マーラー;交響曲第8番 | |
1911 | 40 | イタリア旅行 | シベリウス;交響曲第4番、R・シュトラウス;「薔薇の騎士」 | ||
1912 | 41 | 2つの合唱曲 | シェーンベルク;「月に憑かれたピエロ」 | タイタニック号沈没 | |
1913 | 42 | 管弦楽のためのセレナード | ストラヴィンスキー;「春の祭典」 | ||
1914 | 43 | 「晩夏の夜」 | 第1次世界大戦始まる。北欧3国は中立宣言 | ||
1915 | 44 | 交響曲第2番 | |||
1916 | 45 | ヨェーテボリ大学の名誉博士号を受ける | 弦楽四重奏曲第6番 | ニルセン;交響曲第4番 | |
1917 | 46 | ロシア革命。フィンランド、ロシアから独立 | |||
1918 | 47 | 4つのストックホルムの詩 | プロコフィエフ;交響曲第1番 | 第1次世界大戦終結 | |
1919 | 48 | 市会議員に立候補したが落選 | 管弦楽のためのセレナードを改訂、交響曲第3番に着手 | エルガー;チェロ協奏曲 | |
1920 | 49 | 劇音楽に関心を持ち始める | |||
1921 | 50 | 附随音楽「チトラ」、交響カンタータ「歌」 | シェーンベルク;十二音音楽を構想 | ||
1922 | 51 | ニルセン;交響曲第5番 | |||
1923 | 52 | ヨェーテボリ響を辞め、ストックホルム・オペラの音楽監督に就任 | シベリウス;交響曲第6番(ステーンハンマルに献呈) | ||
1924 | 53 | シベリウス;交響曲第7番 | |||
1925 | 54 | 発病 ストックホルム・オペラを辞任 |
ベルク;「ヴォツェック」 | ||
1926 | 55 | シベリウス;「タピオラ」、ショスタコーヴィッチ;交響曲第1番 | |||
1927 | 56 | ヨェーテボリで歿する |
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