パブロ・カザルスPablo Casals(1876-1973) |
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指揮者としてのパブロ・カザルス 指揮者デビュー カザルスは、1876年12月29日、スペイン・カタロニア地方の町ベンドレル生まれ。チェリストとしては1890年代から演奏活動を始め、1900年代の前半には名声を確立している。
パウ・カザルス管弦楽団 1919年、それまでパリを本拠としていたカザルスは、第一次世界大戦などをきっかけに故郷カタロニアへ戻る。
このオーケストラで指揮したレパートリーにはグラナドスやアルベニス等のスペインの作曲家以外に、 R・シュトラウス、マーラー、ミヨー、オネゲル、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、バルトーク、コダーイ、シェーンベルク、ウェーベルン 等が含まれていた、という(!)。
1923年5月、若き日のサー・エイドリアン・ボールトがパウ・カザルス管弦楽団に客演した。彼は約1月にわたってバルセロナに滞在、カザルスのリハーサルを見学した。ボールトは語っている。 「カザルスは偉大な教師であるがゆえに偉大な指揮者である。」 カザルスの指揮は、後年まで、この特徴を失わなかった。マールボロ等でのリハーサルの録音を聴くとよく分かるが、ほとんど口写しにフレージングやアクセントを教え込むのである。その点、チェロの個人レッスンと変わらないかのようである。
不評さくさくの客演指揮手兵の指揮のかたわら、あちこちのオーケストラに客演した。手許の資料で曲目等がわかるのは次のようなもの。
ただし、指揮技術はかなり未熟で、客演したオーケストラの楽員からは、しばしば反発された、というか、馬鹿にされたらしい。 BBC響;「棒がわかりません。ちょっとチェロで見本を演奏してくれませんか。」 レコード録音も行っているが、野村あらえびす曰く 「カサルスは優れた音楽家で尊敬されていいが、レコードの上では指揮者として活躍したものは多くない。ベートーヴェンの『第四交響曲』その他二、三、ビクターから出ているが、いずれも大したことはない。」
亡命と沈黙 1936年、スペイン内乱が勃発する。7月18日、バルセロナに戦火が及んだ時に、折しもベートーヴェン;第9交響曲のリハーサル中で、第4楽章を演奏してオーケストラを解散したエピソードは有名である。
最終的にフランスへ亡命したのは1939年1月26日のことで、スペインとの国境に近い町プラドに住む。南部フランスはドイツの占領こそ受けなかったが、親独派政権の統治下にあり、反フランコ・反ファシストのカザルスには辛い日々だった。
プラド音楽祭の発足 プラドに引きこもったカザルスのもとに、あちこちからチェリストがレッスンを受けに来るようになった。その1人、バーナード・グリーンハウス(ボーザール・トリオ初期のチェリスト)が友人のヴァイオリニスト、アレクサンダー・シュナイダー(ブダペスト四重奏団の第2ヴァイオリン)に話をしたことから、カザルスが音楽活動を再開することになる。
シュナイダーは、帰米後、ミェチスラフ・ホルショフスキ(1892年生れ、1993年に死去したピアニスト。カザルスとは1905年以来の知り合い)にこぼした。 シュ「あのジイさん、アカンわ、何ゆうても聞きよらへん。」
シュナイダーは、1950年にプラドでカザルスを音楽監督とするバッハ・フェスティバルを開催する案を提示し、説得に成功した。資金はアメリカ・コロンビア社が負担し、音楽祭での演奏を録音して、開発まもないLPで発売することになった。
トルトゥリエは、こう回想する。 「私たちはブランデンブルク協奏曲第1番からリハーサルを始めた。第2楽章で、オーボエとヴァイオリンがニ短調で交わす張り詰めた対話にカザルスが示した深い感情を、私は決して忘れないだろう。あの楽章をカザルスと一緒に演奏することは、言葉に言い尽くせないほど感動的だった。…私達はすすり泣き、バッハの精神の近くまで導いてくれたカザルスにひざまずくような気持ちになった。」 翌1951年はプラドでの会場(サン・ピエール教会)が使用できなかったため、近隣のペルピニャンの「マヨルカの王宮」を会場として開催された。 例えば、イヴォンヌ・ルフェーブルは「アメリカの聴衆に馴染みがない」として外される一方、アメリカのコロンビアのアーティスト総動員となった。 しかも、カザルスを筆頭とする演奏者達のわがままに振り回されたシュナイダーらが音楽祭から手を引いたこともあり、1954年には室内楽のみのプログラムに縮小を余儀なくされる等、プラド音楽祭は徐々に低調となっていった。
プエルト・リコ、そしてマールボロへ 1955年頃からカザルスはプエルト・リコへ本拠地を移していくようになる。プエルト・リコはカザルス最愛の母の故郷でもあり、晩年を看取ってくれた愛妻マルタの故郷でもある。
京都のカザルス1961年、カザルスは日本を訪れる。弟子平井丈一郎を帯同し、彼の帰国公演を指揮するためである。演奏記録は次のとおり。
カザルスは4月18日夜に京都に入り、19日午前10時から午後1時過ぎまで、15分間の休憩を挿んだだけで、熱心にリハーサルを行った。冒頭4小節のフレージングを繰返し練習、1時間経っても8小節しか進んでいなかったという。 「初めは椅子に腰をかけたまま指揮したが、次第に熱を帯びてくるにつれ椅子から乗りだし、力と熱のこもった指導ぶりで、巨匠の音楽に対するきびしい態度が指揮棒の先からほとばしり出るようだった。」(京都新聞)
最晩年の演奏活動 1963年、マールボロ音楽祭でのベートーヴェン;交響曲第8番とメンデルスゾーン;交響曲第4番「イタリア」のリハーサルを聴いていたゼルキンは録音を決意する。彼は直ちにコロンビア社へ電話し、「費用は音楽祭事務局で負担するから」と説得して、コロンビア社の録音スタッフがマールボロにやって来ることになった。これをきっかけに、カザルスの指揮芸術の集大成とも言うべき、一連のレコードが製作されることになる。 なお、この年、マールボロにグレン・グールドがやって来る。カナダ・CBC放送の番組(「カザルス−ラジオのための肖像」)製作のためであるが、残念ながら、手許の資料にはエピソードが見当たらない(もし、この2人が顔を合わせてバッハを語ったなら・・・)。 9月30日、プエルト・リコの友人宅で致命的な心臓発作を起こしたカザルスは、10月22日午前2時、サンファンの病院で死去した。享年96歳。 (ロバート・バルドック著『パブロ・カザルスの生涯』 カザルスの名演奏を見る 名匠列伝へ戻る 指揮列伝へ戻る
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