マルケヴィッチとディアギレフ |
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ディアギレフを知っていますか? |
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セルゲイ・ディアギレフ(1872〜1929)は、いうなれば今世紀最大のプロデューサーである(昔はインプレサリオ−興行師−と呼ばれていたが、とおりの悪い言葉になってしまった。)。 |
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ロシア・バレエ団の芸術 |
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ディアギレフはロシア・バレエ団を率いて、物語・音楽・舞台美術・振付を総合した新しいバレエを目指し、新進作曲家・台本作者(ジャン・コクトーら)・画家(ピカソ、アンリ・マティスら)・振付師(ヴァーツラフ・ニジンスキー、レオニード・マシーン、ジョージ・バランシンら)を次々と発掘。初期のスラヴ風・中近東風のエキゾチシズムから、ギリシア古典風やモダニスト風へと、時代の流行を開拓していった。主な作品は次のとおり。
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ロシア・バレエ団の指揮者達 |
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最初期には作曲家としても知られるチェレプニンやピエルネが指揮していたが、1911年の「ペトルーシュカ」初演からピエール・モントゥーが参加し、彼が第一次世界大戦で徴用されるまで、「ダフニス」・「遊戯」・「春の祭典」等の初演を担当するなど、大活躍した。またロンドン公演ではトーマス・ビーチャムが指揮台に立つことが多かった。 その後は、「パラード」・「三角帽子」等を初演したエルネスト・アンセルメや、デジレ・エミール・アンゲルブレシュトやロジェ・デゾルミエール、ユージン・グーセンスといった人達が中心となって指揮台に立った。 なお、アンタル・ドラティの経歴に「ロシア・バレエ団の指揮者」と書かれることがあるが、これはディアギレフ死後に名称を引き継いだ別団体である。 |
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出会い |
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1928年夏、たまたまディアギレフの秘書がマルケヴィッチの母と知合いになり(ロシア出身どうしで話があったのだろう)、息子が若い頃のレオニード・マシーン(ロシア・バレエ団中期のダンサー兼振付師)とそっくりなことに驚いた。 その頃、マルケヴィッチはラヴェル;「ダフニスとクロエ」に夢中だったので、その曲の注文主だったディアギレフは尋ねた。 「どうして昨日の作品にそんなに夢中になるのかね。」 16歳の少年は、はったりくさいかなと思いつつ、こう答えた。 「僕が興味を持っているのは、昨日でも今日でもなく、永遠のものなんです。」 これにディアギレフは感心し、マルケヴィッチの才能を伸ばしてやりたい、と考えるようになった。 |
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最後の恋 |
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才能への関心が、マルケヴィッチ本人への恋愛感情に転じた。 ディアギレフは同性愛者で、ニジンスキーとの愛憎は映画化までされた(1980年)。マシーンやリファールも半ば公然の「恋人」であった。この4人、いずれも細面、繊細で神経質そうな美青年だったという点で、そっくりである。 56歳のディアギレフはマルケヴィッチに夢中になった。マルケヴィッチに同性愛傾向はなかったが、むしろ父親的愛情を感じてディアギレフを慕った。 「彼は私に世界全体をくれようとした。彼の寛大さは限度を知らなかった。ディアギレフは倒錯者ではなかった。むしろ感情を重んじる人物だった。たしかに彼の愛情には肉欲的な側面があったけれども、たぶんそれは彼にとって必要悪だったのだろう。」 |
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ピアノ協奏曲とバレエ音楽「王様の衣裳」 |
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1929年7月15日、マルケヴィッチのピアノ協奏曲は、ロシア・バレエ団のロンドン公演の初日に初演された。会場はコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス、独奏は作曲者自身、指揮はデゾルミエールで、ストラヴィンスキー;バレエ「きつね」との組み合わせであった。 マルケヴィッチにはバレエ音楽も委嘱されていた。アンデルセンの『裸の王様』に題材を取ったバレエで、「王様の衣裳」というタイトルが与えられ、美術はピカソに頼みたい、というのがディアギレフの考えだった。 |
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最期の旅 |
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ピアノ協奏曲の初演の後、マルケヴィッチはスイスへ帰省した。7月27日、ロンドン公演を終えたディアギレフとバーゼルで落ち合い、ドイツ旅行へ出発する。 28日、バーデン・バーデンの音楽祭でヒンデミットの新作の初演を聴き、委嘱中のバレエの打合せ。7月30日、ミュンヘンを訪れ、R・シュトラウスと会食。その日に「魔笛」、翌日は「トリスタンとイゾルデ」、8月2日には「コジ・ファン・トゥッテ」、4日には「マイスタージンガー」を観劇。また、美術館へも連れていって、レンブラントやルーベンスを見せた。最後にザルツブルグで「ドン・ジョヴァンニ」を観劇し、8月7日、マルケヴィッチはディアギレフと別れてスイスに戻る。 この旅行中、ディアギレフは終始、陽気で幸福そうだった。マルケヴィッチも、時々涙が出るほど笑わされた。しかし、ディアギレフは長く重症の糖尿病を患っており、この旅行中も実はかなり痛みに苦しんでいた。愛するマルケヴィッチには、そうした素振りも見せないのがディアギレフのダンディズムであった。 |
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エピローグ |
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その夏、ベルギーに滞在していたモントゥーは、ディアギレフの死を知らせる電報を受け取るや、それをポケットに入れ、一人で林の中に入っていって、長い時間、号泣した。 「ディアギレフは真に偉大な人物だった。彼は私にとって座長以上の存在だった。私は彼の教養、すべての物事に対する完璧な趣味、他人の才能をいつも認め、また物事に敢然と立ち向かう態度を尊敬していた。」 ディアギレフの死後、バレエ団は解散に追い込まれ、マルケヴィッチのバレエ音楽は未完に終わった。 マルケヴィッチは、それから25年後に「ディアギレフへのオマージュ」(EMI)を、41年後に「モンテ・カルロのディアギレフ」(コンサート・ホール)を指揮し録音することによって、世界を自分に開いてくれた亡き恩師に酬いることになる。
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リチャード・バックル『ディアギレフ』(鈴木晶 訳、晶文社) 等を参考にしました。 |
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