マルケヴィッチ、ディアギレフを語る

 

Drummond Speaking of Diaghilev 表紙  このページは、John Drummond 編著 "Speaking of Diaghilev" (faber and faber, 1997) のうち、マルケヴィッチの章を全訳したものである。
 
 編著者は芸術プロデューサーとして長年活躍した人物で、エディンバラ国際音楽祭やロンドン・プロムスの監督を務めたこともある。1970年代には、BBCの教育チャンネルやラジオ放送の芸術プログラムを担当していた。
 彼は、1967年、BBCテレビのためにディアギレフとロシア・バレエ団についての2本のドキュメンタリーを製作した。この本は、その際に行われたインタビューを中心に編まれたものである。
 マルケヴィッチのほか、タマーラ・カルサーヴィナ、リディア・ソコロヴァ、レオニド・マシーン、セルジュ・リファールといったダンサー・振付家、アンリ・ソーゲやエルネスト・アンセルメといった音楽家らが、聞き取りの対象となっている。
 なお、同書はamazon.comなどで購入できる。

  あなたはどういうふうにして、ディアギレフと知り合ったのですか? (Drummond、以下同じ)
英語はあまり得意じゃないんですが、お答えするようにしましょう。 (Markevitch、以下同じ)
 
1928年のことでした。ディアギレフは私のことを一人の作曲家として聞きつけ、作品を聴いてみようと思い立ったのです。
もちろん、それらの曲はとても子供じみた作品でしたが、ディアギレフはその子供じみた作品にさえ興味を持ってくれたのです。
 
それから何度も彼に会いました。
 
そのうちの1回は歴史的なものです。
1928年の12月のある夜、ロシア・バレエ団の公演の時に、彼らはニジンスキーを連れてきて、踊りが彼を刺激して、ひょっとしたら彼の精神を狂気から目覚めさせるのではないか、試してみようとしたのです。
 
この夜の様子については有名な写真が残っていますが、私もそこにいたのです。
その場にいた人は皆、この有名で伝説的な人物を見て心を動かさずにはいられませんでしたが、私も同じでした。
 
もっとも、もし、何年か後に彼が義理の父親になると知っていたら、もっと驚いたでしょうけれど。
 
何もかもが初めてのことで、当時の私にはよくわかっていなかったのですが、その時期に私は何回かディアギレフに会い、彼はそのときに私にバレエ音楽の作曲を依頼しようと思いついたのです。
  でも、ディアギレフからの依頼はピアノ協奏曲だったのでしょう?
ええ、それは、ディアギレフが、私のことを、バレエ音楽を作曲するには経験がなさすぎると考えたからです。私はまだ16歳でしたから。
彼は、私がオーケストレーションができるのかどうか、また音楽の小片を展開していくことができるのかどうかを確かめようと、ピアノ協奏曲の作曲を依頼したのです。
 
それから彼は、ヴィットリオ・リエティに、作曲における楽器の扱い方を私に教えるよう、頼みました。
それで、私はリエティに何度かレッスンを受け、ピアノ協奏曲を書きました。ここロンドンで、1929年夏に、私自身が独奏して初演した曲です。
  リハーサルはどんなでしたか。
条件は整っていましたか? 困難ではありませんでしたか?
ええ、とっても。
 
ディアギレフは新しい実験を求めていました。で、私がその新しい実験だったわけで、ロシア・バレエ団の全力と彼の資力が、その実験に集中されたのです。
 
何カ月もの間、私の曲は彼の最大の関心事で、リハーサルの間中、私は演奏に慣れるために色々な可能性を試すことができたことを思いだします。
私はピアノ協奏曲を演奏したことはありませんでしたし、オーケストラと一緒にやるのも初めてでしたから。
 
ロジェ・デゾルミエールが指揮してくれて、彼とはそれ以後友達になりました。私たちは十分に準備をすることができました。
  振り返ってみて、いい作品だったとお考えですか。
はい、悪くなかったと思いますよ。
当時の私の年齢を考えれば、良かったといってもいいでしょう。
 
作品について言えば、いわゆる「バッハへ帰れ」という傾向が強すぎたかもしれませんが、あの曲はまだ意味があるでしょう。
  ロンドンの音楽シーズンが終わってから、ディアギレフとドイツへ行きましたよね。どこを廻ったのですか?
ディアギレフは、援助したいと思った芸術家には、あらゆる刺激を与えて、潜在的な可能性をすべて発見させることを望みました。
私が彼に同行した小旅行は、大変に短いものだったとはいえ、その典型的なものでした。
 
彼は、私に同時代の新しい音楽を聴かせようとしたのです。
私たちはバーデン・バーデンに行って、ヒンデミットやミヨーの音楽を聴きました。
また彼は、私にワーグナーやモーツァルトのオペラを聴かせましたが、どれも私には初めて聴く曲でした。
 
私は16歳の少年でしたから、そこで見るもの会う人すべてが楽しかったものです。
彼は私を博物館・美術館に連れていき、R・シュトラウスやミヨー、ヒンデミットといった、とても興味深い人たちに会わせてくれました。
もちろん私にとっては、まったく新しい世界の発見でした。
 
彼は、それまでにも、援助しようとしたすべての人に同じようなことをするのが常でした。
ストラヴィンスキーにも、ニジンスキーにも。
 
ニジンスキーに対して、それをしたのは、彼に初めてバレエの振付をさせることを決めたときでした。その時の作品が「牧神の午後への前奏曲」です。
 
ほとんど信じられないことですよね。
ニジンスキーはおそらく途方もない才能を与えられた人でした。
それは彼が「牧神の午後への前奏曲」でしたこと、また古典的な振付でした仕事、あるいはきわめて革命的な振付を行った「春の祭典」などから知ることができます。
しかし、誰がそれを前もって知ることができたでしょう?
 
ニジンスキーには振付の経験がまったくなかったのです。
そこでディアギレフは、まず、この10分ほどの曲に200回ほどのリハーサルを割り当てました。
これは今日では贅沢な、ほとんど信じられないことです。
 
また、ディアギレフはニジンスキーを連れて、浮き彫りや彫刻やそういったものすべてを見に行きました。
これが後でニジンスキーが「横顔を向けた振付」を行うアイデアになったのです。
 
これがディアギレフがやったことの典型です。
 
ですから私は彼のことを歴史上もっとも途方もない「煽動者 agent provocateur」と呼びたいのです。
もちろん、彼は政治には何の関係も持ちませんでしたが、彼は天才、才能、思想の「煽動者 agent provocateur」であり、事実、彼自身もどこか途方もないところを持っていました。
 
彼は芸術家から最良の部分を引き出すすべを知っていました。
それが、ディアギレフその人を除いて、芸術家自身でさえ気づいていなかったようなものである場合も多かったのです。
 
誰が真の作曲家であるかを知ることは、しばしば困難です。
今でも憶えていますが、私がピアノ協奏曲を作曲している頃、しばしば、怒りにかられたとは申しませんが、絶望したことがありました。
 
だって彼は、「ここはああいう風に書かなくちゃいけないよ」、「ここでピアノを入れないといけないよ」、「ここはオーケストラの出番で、ピアノじゃないよ」なんてことばかり言ったのですから。
私は「でも作曲家は僕ですよ!」と言いました。
 
誰が創造者であるのかを正確に知ることはとても難しいことです。
というのは、皆さんは彼が創造していたという印象を持つことがあるでしょうけれど、フランス語で言う「干渉者 par personne interposée」ということがありますからね。
  あなたが彼と一緒だったのは、彼が死ぬ前の2、3カ月ほどでした。そんなときの彼の様子や振る舞いはどのようなものでしたか。
彼がひどい病気だということに気づくのは難しかった。特に当時の私のような、人生経験のない子供にとっては。それに、以前の彼のことは知らなかったわけですし。
また、彼の周囲に、そういう疑いを持った人がいたかどうか、疑問です。
 
私たちは彼の死に近づきすぎていたのです。
 
彼は冗談を言い、非常に情熱的で、未来に関心を持っていました。
彼の様子や振る舞いは何か非常に特別なものでした。
彼はとても古風な紳士でしたが、それは奇妙でしょう? 彼には革命家(révolutionnaire)という印象がありますからね。
 
彼がやったスキャンダラスな初演は、「春の祭典」だけでなく、「パラード」でもそうでしたし、他にも多かったのです。
例えば、コンスタン・ランバートの「ロミオとジュリエット」は、「春の祭典」と同じくらいに恐ろしいスキャンダルになりました。
 
でも、彼の外見はとても古風な紳士のそれでした。ちょっと別次元の人でしたね、他の人に比べると。
彼は他の誰よりも重要な人物に見えました。背が高く、ちょっと太めでした。
毛皮のコートを着て、片眼鏡、ステッキ、手袋、絹の「隠しカラー cache-col」を身に付けていまして、それらすべてが、彼を重要人物に見せていました。
 
彼の歩き方、レストランや劇場への入り方は、まるで大きな船が港に入るようでした、まわりに小さい船を従えて…つまり私たちです。
 
彼は美丈夫と言ってよかったでしょう。母方の先祖はピョートル大帝に遡るんだ、とよく言っていましたが、ひょっとしたら間違いないかもしれません。
よく似ていましたよ。口元など、びっくりするほどピョートル大帝そっくりでした。
  どんなことを話していたのですか? いつも音楽のこと? それとも絵画でしょうか?
何でも話しましたよ。
彼は、一緒に仕事をする芸術家たち、特に若い芸術家たちには、心を開かせることに熱心でしたから。
何でもしゃべったものです。
 
でも、一日中、何かに取り組んでいる、という感じがありました。
途方もなく創造的で、刺激的な雰囲気がありました。
  彼の業績は今日どんな重要性を持つとお考えですか?
とても大きな重要性があると思います。
それは単純な理由で、彼は芸術家たちに最高の仕事をさせる刺激を与える能力・度量を持っていたからです。
 
彼が作品を依頼した芸術家たちは…音楽だけじゃありません、ピカソのことを考えてください、それにマシーン、リファール、フォーキンといった振付家たちのことも…彼らはディアギレフに自分の最高の作品を提供したのです。
 
この理由で、彼の重要性は絶対的に抜きんでたものなのです。
  1920年代のフランスの若い作曲家に彼が与えた援助のあり方については、ずいぶん批判されてきました。
あなたにとって、それまでよりも良いものか悪いものか、どちらでしたか?
良い悪いの問題ではありません。
 
お答えするのが難しい質問ですね。
 
でも、非常に重要なものだということは確かです。
 
「うるさ方」や「牝鹿」は重要な作品に間違いありません。
「パラード」もね。
音楽の上では、「パラード」は新しい音楽の記念碑的な作品であり続けていると思います。タイプライターとかサイレンといったものを使った、「ミュージック・コンクレート」の最初の作品であるという点で。
 
ディアギレフに関する多くのものについて、たとえば「パラード」のスコアについて、彼が何を予見していたかを、今の我々は理解しています。
 
いや、それらは今でも非常に重要ですね。
そのうちどれが真に重要なのか、まだ早すぎてわからないくらいだと思います。
判断できるようになるには、もっと時間が必要でしょう。
 
でも、例えば、「パラード」と同じくらい「鋼鉄の歩み」は重要だと、私は思います。
機械をテーマにした最初のバレエですからね。
良いバレエ音楽の条件は何だとお考えですか。
冗談みたいに聞こえるかもしれませんが、良いバレエ音楽というものは踊りなしでも耳を傾けることができる曲だと思います。
どのような点でディアギレフの影響は音楽にとって重要なのでしょうか。
肯定的な側面を考えるとすれば、たった一人の人間が、こんなにも多くのものを創造することができ、また音楽の歴史全体の中にかくも巨大な影響を遺すことができたというのは、素晴らしいことです。
 
結局のところ、「春の祭典」は、音楽史の中で、ベートーヴェンの第九交響曲やワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のような重要性を持っています。
 
しかし、否定的な側面も考えなければなりません。
 
ディアギレフは、新ウィーン楽派、すなわちシェーンベルクやベルク、ウェーベルンには、まったく興味を持たなかったのです。
今でも憶えていますが、私がこういう作曲家について話したとき、ディアギレフは、そのたぐいの実験はとっくに終わったさ、と言いました。
 
そうですね、彼は間違ったのです。
その後どうなったかというと、いまや今日の音楽の最も重要な潮流になっているのですから。
 
そうですね、彼が興味を持たなかった、ごくわずかな領域の一つだったといえましょう。盲目だったとまでは申しませんが。
 
でも、肯定的な側面を考えれば、彼の影響は間違いなく絶大なものです。
マルケヴィッチ、1928年頃

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